ドラマのような少人数での脱出ではなかった

ナンセンスな描写をほかにも挙げておこう。「どうする家康」の第28話「本能寺の変」(7月23日放送)では、「伊賀越え」がはじまるところまで放送された。そこで家康は、わずかな兵をしたがえて山中を走りながら、みずから刀をとって落ち武者狩りをする百姓たちと戦っていた。次々と家康を襲う百姓たちと取っ組み合いながら逃げるのだが、さすがにこんな状況がずっと続けば、命がもたないのではないだろうか。

現実には、家康の伊賀越えに随行した人数ははっきりしないものの、それなりに達したと考えられ、黒田基樹氏は「数千人は引き連れていたことであろう」と記す(『徳川家康の最新研究』朝日新書)。

また、同じ28話で、「家康の首をとれ」という号令が明智光秀(酒向芳)から出されたことになっていた。しかも光秀の動機は、安土城(滋賀県近江八幡市)で家康一行の饗応役を務めた際に、家康が鯛の臭いを気にし、自分が信長から叱責される原因をつくったから、というもの。

光秀は「あのクソたわけ(家康)の口に、腐った魚を詰めて殺してやる」と発言したが、このように低レベルの私怨にとらわれる男に描かれる光秀が気の毒である。

4日で141キロを走破

さて、ドラマの描写を離れて、家康の動きを追ってみたい。

信長の提案で、5月29日ごろから堺(大阪府堺市)を見物した家康は、6月2日の朝に京都に向かった。ところがその時間には、すでに信長は自害していた。

先に引用した『石川忠総留書』によると、信長の横死を家康に急報しようと堺に向かっていた京都の商人、茶屋四郎次郎清延が、一足先に京都に向かっていた本多忠勝に枚方(大阪府枚方市)のあたりで会った。凶事を知らされた忠勝は茶屋とともに家康のもとに向かい、家康は飯森八幡(大阪府四条畷市)のあたりで、彼らから信長の死を知らされたという。

前述したように、追い腹を切るといい出した家康だったが、結局、自身の領国へ帰る決断をする。

この逃避行に関しては一次資料がなく、江戸時代の記録で数通りのルートが伝えられている。そのなかでは、先の『石川忠総留書』に記されたものが信頼度は高いとされる。

それによると、6月2日には堺から宇治田原(京都府宇治田原町)まで13里(約51キロ)を移動。3日には宇治田原から小川(三重県伊賀市)までの6里(約23.5キロ)。そして、最終日の4日には小川から四日市(三重県四日市市)まで17里(約66.7キロ)を進んだ。かなりの強行軍である。さらに白子(鈴鹿市)まで移動して船に乗り、知多半島の常滑(愛知県常滑市)経由で三河大浜(愛知県碧南市)に着き、岡崎城に戻っている。