なぜ明智光秀は織田信長に謀反を起こしたのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「計略と策謀に優れた光秀は、天下をとる好機とみて本能寺の変を起こしたのだろう。決して信長への怒りに任せて行動したのではない」という――。
明智光秀画像
明智光秀画像(画像=本徳寺所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

なぜ明智光秀は信長を討ったのか

織田信長は天正10年(1582)6月2日、宿泊中の京都・本能寺を家臣・明智光秀に襲撃され、49歳の激動の生涯を閉じることになる。なぜ、光秀は信長に謀反したのか? これまで多くの歴史家や作家がさまざまな説を提示し、耳目を集めてきた。

それら諸説の中で、時代劇などでも繰り返し描写されてきたものに、信長が光秀に暴行を加えたというものがある。いわゆる折檻説だ。

大河ドラマ「どうする家康」においても、その様子が描かれた。

安土城で催された宴の席。そこで出された鯉料理の臭いに家康は顔をしかめる。光秀は、これは日本一の淀の鯉であり臭みはないはず、家康が高貴な料理に慣れていないのではと弁明する。その言葉に怒った信長が光秀を足蹴りにして「出て行け」と怒鳴る。

おそらく、それを恨みに思った光秀が信長を本能寺の変に襲うという展開になるのだろう。

「安土饗応」は後世の作り話

信長の光秀に対する暴力の記載は、諸書にある。例えば、武田討伐(天正10年)を終えた後、光秀が「我らも年来、骨を折った甲斐があった」と述べたことに対し、信長は激怒。「お前はどこで骨折ったのか。武功があったのか」と血相を変えると、光秀の頭を欄干にぶつけて、恥をかかせたという(『祖父物語』)。

また、同年、光秀は信長から徳川家康の饗応役を命じられたため、食材(生魚)を用意していた。ところがその生魚は、高気温のため腐り、悪臭を漂わせる。料理部屋を訪れた信長は、そのさまを見て「家康の馳走は光秀に任せることはできない」と饗応役を解任。恥をかいた光秀は、大量の料理、魚、器具を堀に投げ捨てたとの逸話が『川角太閤記』に載る。

しかし『川角太閤記』にしても『祖父物語』にしても江戸時代初期の俗書であり、その内容にそれほど信用があるものではない。以上、記した逸話も作り話と考えられる。