光秀以外の武将も暴力を受けたのか

とはいえ、信長が光秀を暴行した話は、俗書だけではなく、信憑性が高いとされる史料にも記されている。その史料とは、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』だ。

フロイスはポルトガルの宣教師であり、来日し、信長や秀吉とも会見したことで有名である。フロイスの著書『日本史』は戦国時代の日本を考える上で重要史料となっている。その『日本史』に次のような記載がある。

「信長は、家康一行の接待役を命じられた光秀と、その準備について安土城の一室で密談していたが、信長は元来逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々のうわさによると、信長の好みではない件で光秀が言葉を返すと信長は立ち上がり、怒りを込めて一度か二度、光秀を足蹴りにした」

まさに、信長による光秀暴行の記録だ。しかし、注意しないといけない点は、フロイスが暴行を「人々のうわさ」と書いていることである。フロイスが暴行現場を見た訳でもないし、見た人(家臣)が特定できる訳でもない。

私がいつも不思議に思うのが、信長が他人に暴力を振るう「暴君」であったならば、他の有力家臣(例えば羽柴秀吉や柴田勝家、佐久間信盛)も暴力を振るわれていてもおかしくないし、そうした話が複数伝わっていても良いのに存在しない点である。光秀だけが激しい暴行にさらされている。

重臣・佐久間信盛に対して信長がしたこと

信長に仕えた太田牛一が書いた信長の一代記『信長公記』にも、信長が有力家臣に暴行する場面を見いだすことはできない。

信長は重臣の佐久間信盛を天正8年(1580)に高野山に追放しているが、その時も19カ条もの「折檻状」(怒りの書状)を送り、遠国へ追放しただけである。暴行を加えたわけではない。(暴行が良いか、追放が良いかというのは微妙な問題ではあるが……)

「長篠合戦図屏風」(成瀬家本)より佐久間右衛門信成(盛)
「長篠合戦図屏風」(成瀬家本)より佐久間右衛門信盛[画像=中央公論社『普及版 戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』(1988)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ちなみに、信長が信盛をなぜ追放したのかというと、折檻状の第1条に記されているのが「佐久間信盛・信栄父子が、5年間もの間、(大坂石山本願寺攻めのため)天王寺に在城している間、良い武勲が一つもなかった。このことについて、世の人々が不審に思うのは当然だ。私もそれについて思い当たることがあるが、無念さは言いようがない」との理由だ。

第2条にも、信盛の本願寺攻めにおける怠慢を非難する内容なので、信長が信盛を追放した訳は、本願寺攻めに関連することと考えられよう。