今年30歳になる秋篠宮佳子内親王のお相手選び、いわゆる“婚活”が始まったらしい。4月には旧薩摩藩藩主の家系であり、明治維新後は公爵として華族のトップにあった島津家との顔合わせも行われたという。系図研究者の菊地浩之さんは「現在の島津家の閨閥は、最後の藩主・忠義が“子だくさん”だったゆえに広がったもの。皇室との婚姻も前例があり、佳子さまのお相手が島津家から選ばれてもおかしくない」という――。

島津家の親族会に上皇、秋篠宮両夫妻と佳子さまが参加

2024年4月13日、上皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻と佳子さまが「霞会館」で開かれた島津家ゆかりの会合におしのびで出席されたとの報道があった。一説には、佳子さまのお見合いという見立てもあるようだ。

島津家というのは、薩摩藩主で有名な、あの島津家である。島津家ゆかりの会合とは、「錦江会きんこうかい」のことだろう。「錦江会」は鹿児島湾の別称・錦江湾に由来し、12代薩摩藩主・島津忠義ただよし(1840~1897年)の孫たちが1953年にはじめた会合で、定期的に会合を重ねているという。

薩摩鹿児島藩最後の藩主となった島津忠義
薩摩鹿児島藩最後の藩主となった島津忠義(公爵)1867~1877年(尚古集成館所蔵/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

薩摩藩主といえば、幕末の英傑・島津斉彬なりあきら(1809~1858年)が有名だが、斉彬は子どもにめぐまれず(一説には子女は毒殺されたともいう)、異母弟・島津久光ひさみつ(1817~1887)の子、忠義を養子とした。

1884年に華族令が発令され、華族が公爵・侯爵こうしゃく・伯爵・子爵・男爵の5つに分類されると、島津久光と島津忠義はそれぞれ公爵に叙された。

【図表1】島津家と皇室の関係図

島津忠義は子だくさんで、明治に華麗な閨閥を形成した

公爵は後に人数が増えるのだが、1884年当時は10人しかおらず。その内訳は公家の五摂家5人+維新の功臣・三条さんじょう実美さねとみ、武家の徳川将軍家、薩長の島津家・毛利家、および島津久光である。薩摩藩主だった島津忠義は当時まだ35歳(数え年)で、父・久光が隠然たる影響力を保持していた。久光は西郷隆盛らの家臣が明治維新を成し遂げたものの、維新後の諸政策には不満たらたらで、それを慰撫するために島津家の分家として公爵に叙したのだという(対する長州藩・毛利家は、従順すぎて覇気がないと旧家臣から嘆かれた)。

島津忠義は子だくさんで、8男10女に恵まれた(数人早世したので、実質的には5男8女)。しかも、明治維新を成し遂げた薩長藩閥の親玉、華族のトップ・公爵家である。子女が形成する閨閥けいばつは華麗と言うほかない。

娘2人は皇族に嫁ぎ、徳川家に3人、将軍家、御三家(紀伊家)、御三卿(田安家)にそれぞれ嫁いでいる。また、大名家では福岡藩の黒田家、岡山藩の池田家(いずれも侯爵家)に嫁いでいる。久松伯爵家は、藩祖・島津家久いえひさの正室の実家にあたる。

一方、子息の方は、長男・島津忠重ただしげが家督を継ぎ、徳大寺侯爵家(のち公爵)から妻を迎え、5男・6男は分家して男爵に叙され、7男・島津久範ひさのりは分家筋の日向佐土原藩主(伯爵)の婿養子になっている。