忠義の曾孫は、大久保利通の仲人で西郷隆盛の曾孫と結婚
ただし、兄弟姉妹の仲はどちらかといえば疎遠だったという。子どもたちには一人ひとり“お付き”がいて、それぞれが別々に食事を作って食べ、しかも母親が違ったりするから、兄弟姉妹の交流はほとんどなかった。忠義の外孫・松平豊子(徳川家正の長女)は「島津家の御姉妹皆、無口で社交的でないのはそのせいかも知れない」と語っている。また、末っ子の徳川為子は、実兄・島津忠重について「お兄様とは母も違い11歳もちがってあまり兄妹という感情をもったことはございませんでした」と述懐している。
忠義の子どもたちは、兄弟姉妹といった感覚に乏しかった。親族同士の交流も少なかったのかも知れない。そうした反省を込めてなのか、先述したように孫の代になって親族会「錦江会」が生まれた。子どもたちの形成する閨閥が華麗だったので、おのずと孫たちの閨閥も輪をかけて華麗になった。
系図を紐解くと、島津家の閨閥のすごさがわかる。天皇家、徳川宗家(いわゆる将軍家)は言うに及ばず、公家では近衛文麿、西園寺公望、岩倉具視。武家では松平慶永(号・春嶽)、松平容保。そして、薩摩が生んだ英雄・西郷隆盛の曾孫が、忠義の曾孫と結婚している。その時の仲人は、西郷の盟友・大久保利通の孫が務めたという。
徳川宗家との関係は、将軍正室だった天璋院篤姫が取り持つ
忠重の娘は徳川宗家(将軍家)にも嫁いでいる。これには、2008年の大河ドラマの主役にもなった篤姫(演:宮﨑あおい)が関係しているのだ。
明治維新で江戸城は明け渡しとなり、大奥の女性たちは知人のもとに身を寄せた。篤姫こと天璋院は一橋徳川邸、赤坂紀伊藩邸、戸山の尾張藩下屋敷に移り、最終的には16代宗家・徳川家達(旧・田安亀之助)の千駄ヶ谷の洋館に引き取られた。
家達の妻は近衛忠房の長女・泰子。天障院は泰子を幼いうちから引き取って自ら養育に当たり、結婚した泰子が妊娠したと聞くと、「今度、男子が生まれたら、是非島津家から嫁を貰ってほしい」と遺言して1883年に死去した。翌1884年3月に家達の長男・徳川家正が生まれ、翌1885年に島津忠義の9女・正子が生まれたため、天障院の遺言に従って家正と正子の婚約が整えられた。