「家のベッドで家族に看取られる」状況はまずない

これらが、現代のいわゆるPPKの例です。PPKに厳密な定義があるわけでもありませんし、個人個人でPPKの意味やとらえかたが異なるとは思いますが、直前まで元気にしていてコロっと死ぬというのは、これらの例のような、いわば予測され得なかった突然死ということになります。

つまり、その急変の瞬間を目撃、共有した人は100パーセント救急車を呼ぶなり、即座に救命救急処置を開始することになり、これらは通常避けられません。

逆に、現在の日本において、つい先ほどまで元気に話をしていた人の呼吸や心拍が急に止まっているのを確認したにもかかわらず、ベッドに寝かせたまま“平穏に看取る”という選択をした人は、なぜそのような対応をしたのか、なぜ救急車を呼ばなかったのか、厳しく問われるとともに、あらぬ疑いをかけられる危険性すらあるといえるでしょう。

これらのシミュレーションからいえることは、現在のわが国におけるPPKとは、住み慣れたわが家のベッドで家族に看取られて平穏な最期を迎えるのとはまったく真逆の環境で起きるということです。

もしかすると過去に行ったこともない病院の救急室、しかも家族の立ち入りを禁じられた冷たい救急室の中で、人工呼吸器をはじめとしたあらゆる装置につながれ、採血や点滴の針を四肢に刺され、心臓マッサージをされ……というフルコードの処置のあげくの果てに、人生で初めて会う人たちだけに囲まれて最期を迎えることになる可能性が極めて高いものである、という認識は持っておいたほうが良いでしょう。

手術を行う医療チーム
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「家族に迷惑をかけたくない」と思うなら

このような「逝き方」は、たしかに何年も要介護状態となって家族に負担をかけるということはありませんが、まったくの覚悟もないままの突然の別れは、遺された人に大きな悲しみや戸惑いを与えることにもなるでしょう。

その意味では、むしろ「家族に迷惑をかけたくない」という考えのもとPPKを理想としている人こそ、これらの例のような突然死よりも、徐々に衰弱し要介護状態とはなってもできるだけ苦痛を伴わずに、家族とともに住み慣れた自宅で平穏な最期を迎えることのほうが、その理想により近いのではないかと私は思うのです。

もちろん本稿は、このような突然死をされた方について、不幸であるとか家族に負担をかけるとして批判するものではけっしてありません。人は誰しも死を迎えることは避けられないという動かしがたい現実はあるものの、それがいつどのような形で訪れるのかは、誰にも制御できないということを踏まえた上で、さも「理想的な逝き方」であるかのように昨今思われているPPKとはいかなるものかということを、具体的に例示したにすぎません。