夫、両親、同期、周囲の人が支えてくれた

私がこの危機を乗り越えられたのは、周囲の支えがあったことも大きかったです。

私が審査にかけられた時、今の夫と付き合い始めたばかりの時期でしたが、彼は私を疑うことを一切しませんでした。「なぜあなたは私を疑わないの?」と聞いたら、「知らない誰かの意見よりも、自分の印象のほうがずっと信頼できるから」と言ってくれました。

「周りのサポートが大きかった」当時を振り返り、涙する内田舞さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
「周りのサポートが大きかった」当時を振り返り、涙する内田舞さん。この経験をきっかけに「与えられた責任は100%果たすようになった」という。

また、夫は音楽家なのですが、毎日ひとつの旋律を何十回も練習したり、分析や音楽史の知識を演奏の表現につなげるために勉強し、共演者に「このように弾きたい」と説明している彼の姿を見て、派手な印象のある音楽家の現実はコツコツした努力を積み重ねる毎日だということにも気づかせてくれました。私もできるはずと背中を押されました。

両親も「外国語で研修医をやって、サバイブしている。それだけのことをやっていて、あなたの能力は間違いないんだから、それを証明するしかない」と励ましてくれた。

一緒に学んでいた同期の研修医たちも、誰一人として私の能力や人格を疑うことはありませんでした。海外から来た研修医の方たちは、文化や教育の違いで苦しむこともあるよねと共感してくれましたし、どのように自分の文化を大切にしながらもアメリカで認められる働きをするかについて意見を交換したりもしました。アメリカ生まれの同期は、教科書を一章ずつ一緒に読んで勉強しようと言ってくれ、毎日のように勉強会をしました。周囲の人たちに本当に助けられたんです。

審査を理由に不採用にする病院もあった

そうしたコツコツした努力を続けた結果、私はどんどん優等生になっちゃったんですよ。研修医3年目、4年目になると「この人に聞け」と周りからも思われるようになりました。

イェール大での研修の修了を目前に、次に行く病院を決める時期になりました。小児精神科医としての専分化した研修を受けるために、いくつかの大学病院の研修プログラムに応募しました。イェール大学からもらった推薦状には、研修初期は適正について疑問を投げかけられたこと、しかし日米のカルチャー的なバリアを超えながら、成長してきたこと、今はどこに行っても間違いない研修医であるといった物語が書いてありました。

私が審査にかけられたことがある事実だけを見て、不採用を決める病院もありました。ですが不思議と、私が行きたいと思うようなところでは、成長したことや、現時点での実力に重きをおいてくれたような気がします。そうして私はハーバード大学医学部。マサチューセッツ総合病院の小児精神科研修医として採用されました。