「誰に向けて」が決まらなければ伝えられない
関係性のなかで、ものごとは価値化される。
関係性のなかで〈メッセージ〉を決める。
では、なにかを伝えるときに、もっとも重視すべき関係性はなにか。
いうまでもなく、それは伝える相手(受け手)との関係性、です。
「伝えたいこと」は、受け手との関係性のなかで価値化して、「伝えられたいこと」へと変換する。
そう考えると、なにかを「伝える」ときに、それが「誰に向けたものなのか」をはっきりさせることが、いかに重要かがわかるのではないでしょうか。
ときどき「誰に向けて伝えるかをイメージしたほうが、文章表現が具体的になる」などといわれることがありますが、そういうレベルの話ではありません。
「誰に向けて」を意識しなければ、もっとも重視すべき関係性をふまえることができないだけに、「伝えるべきこと」を適切に決められなくなるのです。
やや極端ないい方をすると、「誰に向けて」がはっきりしないままでは、なにかを伝えるという行為自体がそもそも成り立たないとすらいえます。
ビジネスに関するところでも、サービスを打ち出すときに「その魅力を誰に伝えるか」という議論がなされることがよくありますが、いまの話からすれば、これも順序が逆といえるかもしれません。
「相手が誰だから、こういう魅力を伝えよう」という順で考えるのが本当です。
受け手が誰なのかをはっきりさせなければ、訴える魅力は決まりません。決めようがないのです。
そんな編集の原理を意識したわけではないでしょうが、広告のなかには、このあたりの事情をわきまえて、「誰に向けて」をより高度なかたちでつかいこなしているケースもあります。
その代表例ともいえるのが、JR東海の「そうだ 京都、行こう。」です。
京都の名所が王道の美しいビジュアルをともなって紹介されることで知られる人気の広告キャンペーンですが、そこに書かれているコピー(広告文)には、じつは「誰に向けて」の面でひそかな工夫がなされています。
たとえば、このシリーズのひとつである「天龍寺編」では、つぎのようなコピーが書かれています。
600年以上も昔のプランです。
外の景色をお借りして、完成できたことに感謝する。
そんな気持がここにはあります。
景色を借りると書いて「借景」。
いい言葉じゃないですか。
担当したコピーライターの太田恵美さんによれば、このシリーズのこうしたコピーは、「東京から京都を訪れたひとりの旅人が、東京にいる高校生の姪に書いた手紙」をイメージしながら書かれている、とのこと。
1993年からつづくこの広告シリーズがブレることなく、京都という街の正統的な魅力を素朴かつやさしい目線で訴えかけることができているのは、創作上の設定とはいえ、やはり「誰に向けて」が明確に意識されているからでしょう。
「誰に向けて」がはっきりするから、「伝えるべきこと」が決まるのです。