彼らの時代のヨーロッパには、革命があり、戦争があり、政権交代があり、離合集散があり、裏切りがあった。だからこそ、彼らには常に命を懸けて生きているような緊張感があり、その言動や行動の一つ一つには、ある種のモデルとして大きな示唆が含まれているように思えたのである。

タレイランとフーシェは権謀術数に長け、前述のように“政治的カメレオン”と呼ばれることも多い。しかし評伝を読み比べてみてすぐに気付くのは、一見すると同じ時代を生き、やり口も似ている2人の政治家が、実はその本質的なところでは全く異なる価値観を持つ人物であったということだ。

その違いは彼らの最期がどのようなものであったかを見れば、明確に理解することができるだろう。

タレイランの外交力の凄味は、ロシアなどの連合軍にナポレオンが敗北した直後、独自の「正統主義」によってその敗北を事実上の勝利へと変えてしまったことだ。

ナポレオンによる革命前の総裁政府、そして以後の統領政府でも、タレイランは外務大臣を務めた。ナポレオンが追放された後に、ルイ18世政権の外務大臣としてウィーン会議に出席した彼は、本来フランスは戦争責任者として糾弾される立場といえるのに、フランスもまた他のヨーロッパ諸国と同じく被害者だと主張した。つまりナポレオンによる革命以後も、フランスの正統な政権は亡命中のブルボン王家にあったとしたのだ。それは決定的に不利な状況を外交によって覆し、敗者がいつの間にか勝者と肩を並べている、という比類なき知恵だろう。そして彼は、晩年までイギリス大使として外交の表舞台に立ち続けることになるのである。

対してフーシェはどうだったか。あるときは社会主義者、ときには恐怖政治のジャコバン党員、革命では王家に対する死刑判決を出し、その後の政権でも彼は警察長官の職に就いた。多くの人間の裏の弱点を握り、それぞれの政権に近づいては力による支配を続けたフーシェは、王政復古の時代になると今度は体制の手によって葬られることになる。最期は痩せ衰え、老いさらばえて、教会の神父の手を握りながら一生を終えた。彼はタレイランのようには生き延びることができなかったわけである。

2人の最期の明暗がこれほどまでに分かれたのは、「権力」についての考え方の違いにその理由があったと私は思う。