※本稿は、高森 勇旗『降伏論「できない自分」を受け入れる』(日経BP)の一部を再編集したものです。
気がかりがあると普通に生活するのも困難
私には、兄がいる。幼少期、よく兄と家の前でキャッチボールをしていた。
ある日、私の投げたボールは兄の頭上を越え、向かいにある会社の倉庫の窓ガラスに命中。ガラスは見事粉々に砕け散った。
私と兄は、すぐさま会議を開いた。このことを、母親に告白するか、隠し通すか。約30年前の、田舎にある会社の倉庫である。窓ガラスが一枚割れているくらいでは、大きな問題にならない。それどころか、気づかれない可能性もかなり高そうだ。隠し通すことは十分にできる。
私と兄は、隠し通すことに決めた。
その日の夜、いつも通り夜ご飯の時間となった。しかし、いつあのことがバレるのか、いつ向かいの会社の誰かが家のチャイムを鳴らすのかが気になって仕方がなかった。
夜、ご飯を食べ終えてテレビを見ている時に、母親に話しかけられるだけでビックリして飛び上がりそうになった。この精神状態では、普通に生活ができない。私と兄は再び会議を開き、母親に告白することに決めた。母親からはこっぴどく叱られたが、私と兄はもう何にも怯える必要がなくなり、元気を取り戻した。
翌日、母親と共に向かいの会社に謝罪に行ったが、気持ちはむしろ晴れ晴れした。あのまま隠し通すことを決めていたとしたら、その後数日で我々のどちらかは病気になっていたかもしれない。そしてきっと、30年経ったいまでも心のどこかに暗い影を落としていただろう。
「終了」と「完了」の違い
終了という言葉と、完了という言葉がある。
両者には、どのような区別があるだろうか。
時間などの外部要因によって物事が終わることを“終了”というのに対し、自らの意志によって区切りをつけることを完了という。“終了”の領域に分類されるイベントは、多くの場合「未完了」となり心の中に残り続ける。
前述した窓ガラスを割ったことは、強烈な未完了としてその後留まり続けた。未完了は、いったん発生すると完了するまでなくならない。そしてなくなるまでの間、あらゆるエネルギーを引き寄せ続ける引力を発生させる。子どもの私にとって、窓ガラスを割るというのは、とてつもないイベントだった。しかもそれを隠すとなると、人生のすべてを賭けて隠し通すくらいのエネルギーを要した。