母親の特養入所

2021年3月。78歳になった母親は事前に入所が決まっていた特養に入居した。83歳の父親は前日から大きなため息ばかりで、「見送るのは、涙が出そうになって嫌やから、ワシは先に釣りに行くで」と言って釣りに出かけた。

小窪さんは、母親をだまして連れてきたような形になるのが心苦しかったため、道すがら、認知症が進んでいることや、母親の姉も入所している施設へ行くことを説明。

電車を1時間半ほど乗り継いで特養に到着すると、すぐにケアマネジャーや職員が出迎えてくれた。母親は廊下で会った初対面の入居者と、「まぁ、久しぶり~!」と言ってお互いにハイタッチ。自分の部屋に入ると、あらかじめ小窪さんが用意しておいた自分の服があるのを見て、「まぁ! 私、忘れて帰ったのね。恥ずかしいわぁ~」と言っていた。

小窪さんは、「夕方になったら、『帰る』って、言い出すと思いますけど、よろしくお願いします」と言って、自宅に帰った。実家の父親のフォローは、妹に頼んでいた。

コロナ禍に特養に入所した母親とは、その後なかなか面会ができなかった。2021年12月にかろうじて透明のビニールカーテン越しに会ったが、以降、全く会えていない。2022年1月ごろに施設内感染が起きたため、面会が中止になったのだ。

第6波が落ち着いてきた7月ごろ、施設からタブレットでの面会のお知らせが来た。小窪さんは以前、サービス付高齢者住宅でケアマネをしていた時に、窓越しやタブレットでの面会が行われていたが、耳の遠い人や認知症のある人は、うまく会話ができなかったり、理解できずに混乱してしまったりすることもあり、職員として大変だった記憶があり、躊躇した。

タブレット端末を使用する女性の手元
写真=iStock.com/kaorinne
※写真はイメージです

「毎日同じ人に囲まれて、同じペースで過ごすことで、安心して過ごしている『認知症』の母に、私が“会いたい”という思いだけで、面会という“いつもと違うこと”を起こして母を不安にさせ、混乱させてしまうのは心が痛みます。また、私が帰った後に、混乱して不穏な状態の母を、なだめたり落ち着かせたりする職員さんの負担も申し訳なく感じてしまうのです」

しかし、もう半年以上面会していないことや、また感染の波がきていることなどから、小窪さんは面会しようと思い立った。

タブレット面会は、LINEのビデオ通話が利用されていた。小窪さんは特養の1階にある相談室。母親は4階の自分の部屋にいる。母親は付き添いの職員が横にいるようで、横を向いて困った様子で座っていた。

「お母さん、私のことわかる~? 元気にしてる?」

小窪さんが話しかけると、母親は慌てた様子。職員に、「娘さんですよ。娘さんがここに映ってますよ」と言われると、「えっ? 知りません。私、わかりません。違います」と言い、不穏な時に見せる、目が三角になったような、ひきつったような表情をして、何を言っても、「わかりません」と言って職員に助けを求めている。

少しの間マスクを外してみたが、やはり面会ができなかった約半年の間に、母親の記憶から小窪さんは消え去っていた。

「お母さん、お父さんは覚えてる? ○○さんだよ」
「それは知っています。でも、私も忙しいので、あまり会っていません」

小窪さんを他人だと思っているため、母親は敬語を使い続ける。父親の名前は覚えているようだが、母親の中にあるのは、若い頃の父親かもしれない。

母親は、娘や孫のことはわからなくなってしまったが、自分の姉妹のことは覚えているようだった。タブレット面会終了後、帰途に就くと、小窪さんの頬には涙が流れていた。