三日天下になってしまった最大の要因
さて、叛逆者の心理である。光秀は天下を取った。しかし、信長の首級を手にすることができなかった。このことは、彼の“三日天下”(実際は11日間)を決定的にしたといってよい。
「信長公は生きている」との流言が飛び交い、光秀はこれに悩まされることとなる。そして、備中高松城(現・岡山県岡山市北区)を攻めて苦戦していると思い込んでいた秀吉が、信じられない素早さで山陽道を駆けのぼり、“中国大返し”をやってのけたのにも応対できず、完全に秀吉への反撃に出遅れてしまった。
(まさか、信長が生きている……、そんな馬鹿な……)光秀は完璧に信長を葬った。が、叛臣という立場に立たされたことにより、その精神はいやがうえにも有形・無形の圧迫を受けた。心労に心労が重なる。
山崎の合戦では、秀吉軍3万2千余、自軍1万数千で戦い、敗れ、天正10年(1582)6月13日、光秀は潰走の途中、薮の中に潜んでいた土民に竹鎗でつかれ、あえない最期を遂げた。享年は一説に55という(異説多し)。
なぜ明智光秀は謀叛したのか
明智光秀の謀叛については、従来、諸説がある。が、筆者は最大の要因は信長への不信と、光秀の過労が原因の根本にあったのではないか、と考えてきた。
一つの画期(エポック)は、武田氏滅亡後の宴の最中、光秀が、「これでわれらも、骨を折ってきたかいがありました」と言ったところ、信長が突然、怒り出し、光秀に打擲を加えるという出来事があった。
あのとき光秀は己れが考えてきた新しい国家像と、信長の描くものが、大きく隔たっていることに、気がついたのではあるまいか。
天下統一、泰平の世の招来――それを目指して己れも参画してきた、と自負してきた光秀が、実は主君信長の道具の一つとしてしか評価されていない――そのことを知った。加えて、情け容赦のない信長は、朝廷をもついには滅ぼすのではないか。
この朝廷云々は、おそらく自己保身を正当化するために、光秀がもち込んだ言い訳であったろう。疲れ切った頭の中で、光秀は己れの行く末を考えたはずだ。
おりわるく、佐久間信盛らの追放もおこなわれている。九州征伐まではよいとして、その先、己れはどうなるのか。光秀には秀吉のように、謙って生き抜く気力が、すでに失せていた。