若手を育成していくうえでは、どのようなことに気を付けるべきか。思想家の内田樹さんは「教える側は『親切』を心がけるべきだ。本当に思っていることを話してもいいと思われるような関係性を築いたほうがいい」という。ウスビ・サコさん、稲賀繁美さんとの鼎談をお届けしよう――。

※本稿は、内田樹/ウスビ・サコ著『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

図書館の机に積み上げた本
写真=iStock.com/hrabar
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教える側は「親切」を心がけるべき

【内田】人に教えるのって、教える側にとってもすごくよい勉強になるんですよね。自分が習得した知識や情報の「入力」は自分の言葉で「出力」することによって初めて身につくものだし、教える過程で自分固有のメソッドも出来上がってくる。

だから、「教えてやってる」というよりは「教える機会をいただいている」と考えるべきだと僕は思います。「アカデミックな訓練」というと、ふつうの人は徒弟修業のような理不尽でつらいものを想像するかもしれませんけれども、本当に良質な弟子を育てようと思うなら、教える側は「親切」を心がけるべきです。

日本のアカデミアでは、「親切」という美徳が非常に軽んじられています。日本の大学院ではひたすら院生たちにストレスをかけて、それに耐えられない者を脱落させて、ストレステストに生き残った人間だけで学問をやろうとする。でも、これは日本全体の知的パフォーマンスを見たら、実にもったいないやり方です。

非常に優秀でも、メンタルがあまり強くない子たちがどんどん脱落しちゃうのですから。磨けば光るはずのたくさんの宝石を原石のうちに捨てているようなものです。だから大学教育の方針としては、「正直」「親切」、そして「愉快」というのがすごく大事だと思いますね。

日本独自の論文作法は世界では通用しない

【稲賀】今、日本で「優しくする」とか「親切」というと、誤解が生じやすいですよね。サコ流に「何やってんの?」とピシッと怒ることも、実は優しさであることが見逃されてしまう。「親切」というのも、なかなか難しい言葉です。

専門家にとって最も難しいのは、専門外の人にわかる言葉で話すことです。自然科学系の先生たちはそれができなくて困っているし、日本のジャーナリズムでもそこがすごく遅れている。英語の論文は、初心者が初めて読んでもわかるような文章で書かれていることが最低条件ですが、日本の論文の場合は、“通”にしかわからないような文章で書かないと怒られる。

高校生の頃からとにかく難しい言葉を教科書で丸暗記させ、それらを使えている人が偉いという価値観を植え付けた結果でしょう。でもこれは日本独自の論文作法であって、他のアジア諸国では通用しませんよね。

【サコ】通用しませんね。