自分で文字にしたことはちゃんと話せる

また、先ほどサコさんがおっしゃった「ヴォイス」に関してですが、これを引き出すには工夫が必要です。学生たちは授業で発言するのは怖くても、「意見を書いておいて」と言うと、ちゃんと書くんです。それを集めて「来週はこれに基づいて話してください」と了解をとっておくと、自分で文字にしたことはちゃんと話せる。ここには、日本の漢字文化圏としての特性もあるのではないかという気がしています。

漢字文化圏の我々は、人名にしても漢字を視覚的に捉えているところがあります。一方、ヨーロッパでは語ること、音が基本になっていますから、口頭でメッセージが伝わらなければダメだというのがある。法学部の授業では黒板は一切使わないほどです。入力方法がはなから違うのです。

だとしたら、その利点は活かしたほうがいい。日本人とヨーロッパ人とでは脳内の仕組みはずいぶん違うはずなのに、これまでの教育理論はそういう違いをまったく勘案していない。そこにも問題があるように感じます。

失敗を語り、若者をサポートするのが仕事

【サコ】今のお話を聞いていても、まずもって教育は誰のためにあるのかを問い直さなくてはならない、と感じます。そして、社会のめざす方向を決めるのは誰なのか、ということ。日本では、会社勤めならとっくに定年を過ぎた年齢の政治家が社会の向かう方向を決めている。ほとんど転びそうな老人たちが、後ろからサポートしてくれるのではなくて、私についてこい、と言っている。ここにも問題があると思います。

我々教員は、自分たちの失敗を含めた経験を語りながら、若い人たちがやりたいと思っていることをサポートするのが仕事です。社会に出ると、誰も自分の失敗を語っていません。下手をすると家庭内でもほとんどの親は失敗談を語らない。失敗しても立ち直ることはできる、それを伝えるのは実は非常に重要なのですが。

これからの若者たちは、自らがめざす社会のイメージをしっかり持たないと、老人たちの描いた実現性のないものに従っていくことになってしまいます。私たちは彼らに何をしてあげられるでしょうか。