同じテンプレートだらけの日本社会

【稲賀】ひたすら自ら外に通用しない象牙の塔を高く積み上げようとしている。これは自己満足です。ふるいにかけるというのは、ある大きさのものを選別する、つまり均質化することですよね。そこで拾われた人は、どこに入れても使える汎用性のある人です。

日本の近代化というのはそういう部品のような人間、ジェネラリストをつくることに他ならなかったわけです。でもふるいで振り落とされてしまうものが必ずあって、京都精華大学は、そうした型にはまったふるい分けから外れた、おもしろい若者たちを集めている大学なのではないか、そこがいいところだと思っているのですが。

【サコ】私も最近「フレーム化」とか「テンプレ」という言葉を使うことが多いのですが、日本社会はひとつのテンプレートに合わせたモジュール型の人間をつくろうとしていますね。普通、社会というのは家庭には家庭のフレーム、地域には地域のフレームがあり、全体としてはマルチフレームになっています。それが日本ではどこに行っても同じテンプレート、フレームが使われていて、大学入試にしても就職活動にしても、すべて同じフレームに合わせて動いている。

自分と向き合うことを妨害されている

先ほど内田先生が日本人は怯えているとおっしゃいましたが、それはまさに、すべてを社会が決めているからですよね。自分たちに選択権がないのです。大きなスケールの社会はもちろん、小さな単位である家族までが「君、そろそろ就職活動の時期じゃないの?」と迫ってくる。

だからみんな「時期が来たら就職しなくちゃ」と思ってしまう。まるで洗脳されているかのようです。こんなに若者を洗脳して、同じような部品人間ばかりつくり、それらを組み立てる人がほとんどいないというのは、どういう社会なのかと問いたいくらいです。

若者一人ひとりが「ヴォイス(声)」を上げるようになるには、まずはこれまで生きてきた社会のあり方が当たり前ではないということに気づかせる必要があります。これは非常に難しい。こういう社会矛盾に若者が巻き込まれ、自分と向き合うことを妨害されている状況は、一体どうしたらいいのでしょうか。