「多読」という資源
ですが、近年の「ガイド」における根拠のパターンは、また違うものであるように思われます。たとえば先に紹介した『土井英司の「超」ビジネス書講義』の書き出しは次のように始まります。「この本は、毎年およそ5000冊出されているビジネス書の約2割、1000冊を読んでいる僕が……」(p3)。水野俊哉さんの『ビジネス書のトリセツ』でも「私が08年の1年間で読んだビジネス書は、のべ1000冊を超えている」(p11)とあります。2011年にヒットを飛ばした千田琢哉さんも「4年間で1万冊の本を読んだ」ことによる「目利き」を売りにしていますし、勝間和代さんなども多読を公言していました。
もちろん、土井さんは「本を売るというビジネス」において成功を収めた方であるわけですが、いずれにせよ、ここに新しい価値観が生まれているように思われます。つまり、実際のビジネスの成功とはやや違うところ、「自己啓発書をたくさん読んできた」ことによって何らかの威信が発生し、他者との「差異化」が可能になる、あるいはやや意地悪な言い方をすれば、他者より自分が優れているという「卓越化」が可能になる状況が発生しているのではないか、と。
他にも、水野さんは自己啓発書の「誤読」の危険性を指摘したり、成功書の「選び方」が間違っているから成功できないのだという物言いをすることがありますが、これも多読にもとづく自己啓発書の「目利き」が、それ自体「差異化」「卓越化」の資源になることを前提としています。「フォトリーディング」などの速く、沢山読むための技術も、こうした差異化資源の一つと考えることができます。
そして部分的に重なりながらもう一つ、やはり水野さんの著述が端的ですが、「成功本を読んで成功本を出すことに成功した」(『成功本51冊もっと「勝ち抜け」案内』)という物言いが成立していることも私には興味深く映ります。ここでは、自己啓発書を読んで目指されるのはもはや、実際のビジネスにおける成功ではありません。自己啓発書を多く売ることが(もちろんこれもビジネスの一つといえるのですが)、「成功」として言及されているのです。
自己啓発書の知見を実際のビジネスに活用・応用して成果を挙げることのみならず、自己啓発書をたくさん読むこと、「正しく」読めること、そして自己啓発書を出版し、多く売ることに独自の重要性が見出されている、そのような文化が立ち現れていることを、自己啓発書ブックガイドの成立からみてとれるように思われます。
かつて、難解な哲学書や文学作品、いわば教養書を読むことが一つのステータスだった時代があったといわれています(竹内洋『立身出世主義 近代日本のロマンと欲望』日本放送出版協会、1997;筒井清忠『日本型「教養」の運命 歴史社会学的考察』岩波書店、1995など)。たとえそれが「とにかく読んだだけ」「本棚の飾り」に過ぎなくとも、「そのような本に触れている私」を自己表出することに何らかの意味があった時代があった、ということです。
一方現在では、「読書メーター」のような、これまで読んだ本やこれから読む本をオンライン上で表出できるサービスが一部人気を博していますが、その中では時折、自己啓発書を次々とリストアップしていくような人をみることができます。また今日では、自己啓発書を次々と読んでその感想を書いていくブログ等も散見することもできます。こうした事例からは、「自己啓発書に触れている私」を自己表出することで、他の人との「差異化」「卓越化」が可能だという感覚が少しずつ広がっているのだといえないでしょうか。
とはいえ、「ステータスとしての教養書」という感覚が当時の日本人に遍く、また強く共有されていたわけではないのと同様に、「ステータスとしての自己啓発書」という感覚もまた、現在の日本人に遍く共有されているわけではないでしょう。つまり、「自己啓発書をたくさん読んできた」ことで威信が発生するような「場」は日本のどのあたり(地域、職業、階層、年齢、性別など)に広がっているのか、ということです。
この点は慎重に考えていかねばならないのですが、ビジネス書を中心とした自己啓発書が居並び、何列にもわたって平積みされるターミナル駅の大書店と、自己啓発書が他の書棚と変わりなく陳列されている(もしくはコーナーさえない)郊外・地方の駅前やロードサイドの書店では、自己啓発書の売れ行きや位置づけは全然違いますよね、という話だけをここではまずしておきたいと思います。
次週は《TOPIC-4 自己活性化をはじめた啓発書市場 》です。