万事においてなんとなく依存し合って暮らしている状態

しかし、こういう関係は本当に幸せなのでしょうか。

「お前百まで、わしゃ九十九まで」はそのあとに「ともに白髪の生えるまでと続きますが、「ともに怒りが消えるまで」となると、決して幸せとはいえません。

こうした状態の原因が、相手の暴力、浮気、浪費、ギャンブルといったはっきりとしたものなら、離婚するという選択もあります。

けれども、それほど決定的なものではなく、生活スタイルが違うとか、価値観が違うとか、自分にはやりたいことがあるのに理解を得られないといったことが原因で、不満、怒り、ストレスが生まれているのだとしたら、なかなかすぐに離婚というわけにはいかないでしょう。

話し合ってお互いの違いを尊重しつつ理解し合えればいいのですが、長い間一緒に暮らしてきたにもかかわらず生じてしまった夫婦間の不快な距離感、ギクシャク感は、話し合ったからといって消し去ることはむずかしいでしょう。

それに、こうした関係はそもそも「どちらが正しいか」を基準にして白黒つけられる問題ではありませんし、白黒つけることになんの意味もありません。もし白黒つけてしまったら、お互いの溝はさらに深まるばかりでしょう。

こうした関係が生まれる最大の要因は、お互いが本当の意味で自立していないからではないでしょうか。そして、怒りや不満やストレスを感じながらも、万事においてなんとなく依存し合って暮らしている。そして、かなりの時間を一緒に過ごしているからです。

もし、あなたが「うちの女房なんて」からはじまる愚痴を外で本気で口にしているとしましょう。そんな愚痴を口にしているとき、突然、クシャミをしたくなることはありませんか?(笑)

間違いなく、あなたの奥さんもどこかで噂話をしているのです。「あの人ったら」ではじまる愚痴に違いありません。「あの人」は、もちろんあなたです。

残りの年を不快な距離感、ギクシャク感を覚えながら一緒に生きていくのは、お互いにハッピーとはいえません。

真面目に対策を講じるべきでしょう。

長年連れ添った伴侶と別れて暮らすことは悪いことではない

「退職金が出たら、山分けして別れましょう」

妻からそう提案されたら、あなたはどうしますか?

「それも悪くないな」

そう思えたら、もしかすると、あなたたち夫婦にとって、それは愉快な「老春時代」の幕開けになるかもしれません。それぞれの人生に、新しい可能性、新しい希望、新しい愉しみが芽吹く春の訪れかもしれません。

私は離婚であれ、別居であれ、長年連れ添った伴侶と別れて暮らすことを悪いこと、悲しいこととは思いません。実際、私は妻とは別の家で暮らしています。離婚はしていません。

「別住」

「別居」というと、なにやら、どこか暗かったり、悲劇的だったりするので、私はそんな言葉を使っています。

なぜそうしたのか。

とくにいがみ合ったとか、嫌になったとか、「別住」のきっかけになるような大きなトブルがあったわけではありません。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、妻も私と同様に漫画家です。ある意味、特殊な職業です。

創作に没頭すれば、普通の夫婦とは違った時間をそれぞれが過ごさなければなりません。ネーム(漫画のストーリー、セリフ)作りに苦戦するようなことになれば、ピリピリすることもありますし、締め切りが迫ってくれば一心不乱に作業に打ち込まなければなりません。