「ブラック武勇伝」の悪影響は計り知れない

ただ、この「適度な厳しさ」を見定めるのは、言葉でいうほど簡単ではない。厳しさをどこまで許容するのかは、選手本人の性格や目指す競技レベルに応じてさまざまである。どこまで言葉がとがってもよいのか、そのボーダーラインは、指導者と選手の関係性に左右されもする。

選手同士の人間関係もまた同じで、お互いの関係性の深浅によって「適度」は決まる。つまり、スポーツに不可欠である「適度な厳しさ」は、絶えず揺れ動くなかでかろうじて確保できるデリケートなものなのである。

適正な範囲内にとどめおくべきこの厳しさを、ブラックな指導や過度な上下関係を笑いでデフォルメした語りは助長する。それを乗り越えたからこそいまがあると自己認識するサバイバーの成功譚を、視聴する側はスポーツで実績を残すためには多少乱暴であっても仕方がないというメッセージとして受け止めてしまう。この悪影響は計り知れない。これは、いつまでたってもスポーツ界からブラックな指導や過度な上下関係がなくならない一因になっていると、私には思われる。

スポーツの楽しみを引き出すはずが反対にスポーツ界に分断を作り出し、さらに悪弊を肯定する空気をも醸成しているという自覚を、トップアスリートおよびメディアは持たなければならない。笑うどころか煩悶の深みにはまってゆく人たちがいること、きわめて特異な風習にお墨付きを与えていることには、ぜひ想像を及ぼしてほしい。選ばれし者たちが集う高級サロンのような場での不用意な語りを、公共の電波に乗せて広く発信することの弊害は大きい。

囲み取材を受ける若いスポーツマン
写真=iStock.com/SeventyFour
※写真はイメージです

トップアスリートは影響力の強さを自覚すべき

ちなみに、これら「ブラックな武勇伝」を学生たちに紹介すると、一様に興ざめの表情を浮かべる。令和を生きる若者は、苦笑いを浮かべならドン引きする。これが紛れもない現実である。

なにもこのテの話を一切やめろと言いたいわけではない。どれだけ過酷であっても実際に経験した事実は変えられないし、壮絶な上下関係を乗り越えたお陰で強靭きょうじんな精神力を身に付けたという本人の自覚を否定することなどできるはずがない。

ただ、それを公の場でおもしろおかしく語るのだけはやめなければならない。それが、不本意なかたちで辞めざるを得なかった、かつての仲間たちに向けるべき敬意だからだ。スポーツ界の非常識さを際立たせてその健全化を妨げるという悪影響も鑑みれば、居酒屋などかつてのチームメート同士だけが集まる場で昔話に花を咲かせる程度にとどめおくべきである。

東京五輪以降、スポーツそのものの価値が下落するいま、現役、引退後を問わずトップアスリートの言動が問われている。「常人離れ」への無意識的な志向性を自覚し、メディアの意向をくんで何でもかんでも笑い話にする風潮に乗らない。社会に多大な影響力を及ぼす立場にいるトップアスリートはそう心がけるべきだと、自戒を込めて思う次第である。

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