「スポーツ嫌悪層」のトラウマを呼び覚ます
部活をはじめとする日本のスポーツ界には「スポーツ嫌悪層」が存在するといわれている。学校体育で挫折して早々にスポーツを遠ざけた人は「スポーツ・体育・運動嫌い」だが、それとは異なり、ブラックな環境に心身が疲弊して途中で部活動(スポーツ)を辞めざるを得なくなった人たちだ。つまり、かつて好きだったスポーツが嫌いになり、辞めたあとになっても複雑な思いに駆られている人たちである。
ブラックな指導や先輩からの壮絶ないじりに遭ってやめざるを得なかった「スポーツ嫌悪層」は、あの語りに耳を背けたくなるのは想像に難くない。忘れてしまいたいほど忌まわしい過去の記憶を軽妙な笑いに変え、まるで美化するような語り口にさらに嫌気が差して、ますますスポーツに背を向けるはずだ。選ばれし者たちだけにほほ笑みかけるのがスポーツで、自身はそこから漏れ出た脱落者であることを再び意識させられるのだから、その嫌悪感は増す一方である。
スポーツの魅力を伝えるはずなのに、その意図とは裏腹にスポーツへの嫌悪を煽っている。
「暴力や理不尽な上下関係」を許容する空気が生まれる
これに加えてもう一つ見過ごせないのが、ブラックな環境を容認する空気の醸成である。暴力的な指導や理不尽な上下関係を笑いでデフォルメした語りは、ある程度ならば許容してもよいという印象を視聴者に与える。スポーツの世界はそういうものなのだと刷り込まれてしまう。
スポーツに厳しさが必要であることは論をまたない。競技力の向上を目指し、勝利をその手に収めるためには厳しい環境が不可欠である。体力的にも精神的にも、またコツやカンなどの感覚を研ぎ澄ますためにも、しんどく苦しい練習を乗り越えなければならない。快適さを手放し、すすんで困難を乗り越えようとする向上心がなければ選手としては大成しない。
だからといって、むやみやたらに練習量を増やし、精神的に追い込まれる情況でただただ我慢し続ければいいというものでもない。いま取り組んでいる練習がどのスキルの習得を目的としているのか、試合のどの場面を想定しているのかなど、目指すゴールやその意図を理解したうえで努力しなければならない。
この理解をおざなりにしてただ苦しさを乗り越えたところで、本当の意味での上達は見込めない。すなわち取り組む本人には「納得感」が必要である。これがあるからこそ厳しい練習を通じてさまざまなスキルが身に付き、精神的にもたくましくなる。自らのからだがバージョンアップする充実感は、主体的に取り組むなかでしか得られない。これがあるからこそ、厳しさも「楽しむ」ことができる。
スポーツには、科学と経験に裏打ちされた「適度な厳しさ」が必要なのである。