アスリートが「ブラックな経験」を喜々として語っている

部活動などかつて経験した社会通念をはるかに超えるブラックな指導や、「かわいがり」と称される先輩からの壮絶ないじりが、それを乗り越えたサバイバーの立場から次々と語られる。その話を、司会者をはじめ出演者が軽妙な笑い話へとデフォルメし、爆笑の渦に巻き込む。程度はさておき類似する環境に身を置いてきた元アスリートの私でさえも、ついていけない。

むろんトップアスリートがいかに「常人離れ」しているのかを示すエピソードはこれまでにもたくさんあったし、いまでもその他のメディアで紹介されている。クスッと笑える程度ならなんら問題はない。それもまたスポーツを楽しむ方法だからだ。だが、あろうことか人権にも関わるブラックな経験までをもおもしろおかしく開陳し、それを笑い話にするのは明らかにいき過ぎである。

惜しげもなく話すトップアスリートもさることながら、彼らに語らせる番組制作側にもその原因がある。

「笑いに変えてはいけない話」を電波に乗せていないか

バラエティー番組にありがちなスタジオ内で笑いを完結させる傾向は、「ひな壇芸人」というカテゴリーが生まれて以降とくに顕著である。昨今、この「内輪ノリ」がさらにエスカレートし、誰の目にどのように映るのか、すなわち視聴者の存在が意識から抜け落ち、まるで仲間内だけで話をするような雰囲気に満ち満ちている。

「ここだけの話」と限定し、家族あるいは友人同士で共有するにとどめおくべき話題までもが、あけすけに公共の電波で発信されるようになって久しい。その話を耳にした視聴者がどう感じるのかが考慮されず、本来なら笑いに変えてはならない話を笑いに変えるこの風潮はいただけない。というのも、視聴者のなかに、かつてブラックな環境で挫折を余儀なくされた人たちが紛れているからである。

バスケットボールを抱えて座り込む男児
写真=iStock.com/MoMorad
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