ダム賛成派からの攻撃に心身が蝕まれる
当時は村役場の助役であると同時にダム対策室長を兼務。律儀で責任感が強いだけに、60歳の定年を延長してまでダム反対派の村長を支えていた。脱公共事業の決定打として新事業「木頭ヘルシック」を立ち上げるなか、賛成派からの攻撃の矢面に立たされていた(「おからケーキ」の開発・販売を手掛ける木頭ヘルシックは村役場と民間企業が共同出資する第三セクターだった)。
『奇跡の村』によれば、堅太郎は自宅でも昼夜問わずに嫌がらせの電話を受けるなどで、心身共に限界に達していた。妻の示子から「もう辞めて。これ以上村長の下にいたら、あなたがどうにかなってしまう」と懇願されていた。
1996年8月末の土曜日、23歳の誕生日に帰省した息子・恭嗣を川釣りに誘った。その11日後に自宅で命を絶った。遺書には「恭嗣、がんばれ」と書いていた。
半年足らず前に大学を卒業し、名古屋で起業したばかりだった恭嗣。事務所を社員――当時は1人しかいなかった――に任せて木頭に戻り、母親に寄り添いながら喪に服した。同時に、関連資料を読んだり関係者に話を聞いたりして「全然知らなかった父親の世界を探究し続けた」という。
父親の死から数十年後の今、次のように振り返る。
「ダム問題が最初に浮上した1971年に初代ダム対策室長に就任したのが僕の父親でした。それから永眠するまでの25年間にわたって一貫してダム対策室長。ずっと渦中にいたわけです。なのに僕は何も知りませんでした」
東京の中心にある斬新な本社オフィス
メディアドゥの本社8階に現れた藤田はダークブルーのジャケットにノーネクタイ姿。「どうぞこちらへ」と言い、会議室に入るよう手招きしている。満面に笑みを浮かべながら。フレンドリーで気さくな人柄がにじみ出ている。
テーブルに座った彼の背後は全面ガラスであり、そこから見える景色は皇居内に広がる豊かな緑だ。そう、ここは東京・竹橋にある名建築パレスサイドビル。皇居は目と鼻の先にある。8階は2022年9月にリニューアルを終えたばかりだ。
一見すると、とてもオフィスとは思えないほど斬新だ。オフィスの外側だけでなく内側も緑豊かであり、ちょっとした公園になっている。それだけではない。歴史的書物を集めた広大な「図書館」もあれば、バリスタが常駐するカフェもある。
質問しないわけにはいかなかった。「どうしてこんなオフィスにしたのですか? 顧客と社員、どちら向けなのですか?」
藤田は理路整然と説明し始めた。「どちら向けでもあります。自分の哲学観・思想観を視覚的に見せるために、こんなオフィスにしました」
メディアドゥがパレスサイドビルに入居したのは2016年7月。8階に加えて5階にもオフィスがある。5階には出身地である徳島県の木頭杉を用いたオブジェが配置されている。
「僕を理解してもらうためには実際に相手に会うのが一番。とはいっても時間的制約がありますから誰にでも会えるわけではありません。僕がいなくてもオフィスを見てもらえば、僕が何を考えて何を大切にしているのか伝えられます。時間を買うわけです。そうしなければベンチャーは大企業に追い付けません」