全国に先駆けてユズの大量生産を目指す
木頭は自然に育ったユズの木の数で日本一だ。ユズを特産物として日本全国に売り出して産業振興すれば、ダム建設という公共事業依存から脱却しつつ環境破壊も回避できるのではないか、という読みが出発点になっていた。
ユズはもともと特権階級の間で重宝される高級嗜好品であり、ユズの大量生産を目指す農家は皆無だった。逆に言えば未開拓の潜在ニーズが眠っており、大きな先行者利益が期待できるともいえた。カギを握るのはイノベーションであり、アントレプレナーシップ(起業家精神)だった。
言うは易く行うは難し。「桃栗3年柿8年、柚子の大ばか18年」と言われるように、ユズの実がなるまでにはとんでもなく長い歳月がかかる。結実年数が18年から3~5年へ短くならなければ、果樹栽培は経営的に成り立たない。
木頭では1965年に「木頭村果樹研究会」が発足。「ゆずばか」とからかわれながらも実験と検証を重ねてデータを積み上げ、最終的に結実年数の短縮に成功した。チームを引っ張ったのは臼木であり、局面打開につながった農業技術が「接ぎ木」や「誘引」だった。
その後、木頭村果樹研究会は隣県の高知県を含め日本各地の農家に対してノウハウを惜しみなく提供し、パイオニアとしての地位を確立。1977年には国内で最も権威がある農業賞「朝日農業賞」を受賞している。
脱公共事業に向けて奮闘した父・堅太郎だが…
甘酸っぱくて爽やかな香りが特徴のユズ。現在はパリやニューヨークの高級レストランでも重宝されるなど、世界的に注目される食材だ。欧米でも日本語のまま「yuzu」で通用する。
現在ユズ生産で日本一なのは高知県で、同県の馬路村は「ユズの村」として知られている。だが、高品質のユズをいち早く量産化して広く流通させたのは旧木頭村であり、立役者の一人は堅太郎だった。
『奇跡の村』によれば、堅太郎は工場設立や農協指導、販路拡大で奔走し、基礎自治体の役人でありながらまるで起業家のような才覚を発揮していた。
木頭村果樹研究会が発足したころ、当時30歳だった堅太郎は秀逸なエッセーを書いている。「他人のやった成果を見てからでは、速いテンポで進む現代からあまりにかけ離れている」と指摘し、村役場がユズの大量生産に本腰を入れるよう提案していたのだ。
イノベーションを起こして公共事業依存から抜け出し、木頭の自然環境を守ろうとした堅太郎。朝日農業省受賞から19年後の1996年、志半ばで永眠した。