ひとりでいるさびしさを感じずにすむ考え方
仏教では、そこからさらに慈しみを広げていきます。動物、昆虫、植物……。生きているものすべてを、同じ重みをもつ命ととらえるんです。命がたまたま人間であったり花であったりするだけのこと。そう思うと、命あるものはすべて仲間だという気持ちが生まれませんか?
こうした気持ちが「慈悲心」です。慈悲心が広がっていくと、足元の草も、空の鳥も、道を横切る野良猫も、すべて仲間だと感じられる。人間の仲間と一緒にいるのはもちろんいいけれど、ひとりでいてもそれほどさびしさを感じずにすむんです。
自分で友だちを限定してしまっていることが、さびしさの原因となっている場合もあります。だれもが年を重ねると、家族と離れたり友人とも会いづらくなったりするもの。自分がひとりぼっちのような悲しさを感じることもあるでしょう。
「友だち」の枠を外せば出会う人はすべて友だちに
そんなときは、「友だち」の範囲を修正してみてください。自分の周りにはたくさんの人がいる。日本だけでも、約1.2億人もの人がいますよね。
だれもが無意識で、「誘い合って何かを一緒にできるのが友だち」などの思い込みをもっていると思います。でも命あるものはすべて仲間なのですから、思い切って友だちの定義も手放してしまいましょう。すると、何が起こるか? 出会う人すべてが友だちになり、「人も歩けば友だちに当たる」なんてことになるんです。
私の母は行く先々で、出会った人となれなれしくおしゃべりしています。別れた後に、「どなた?」と聞くと、「知らない」。単に、同じ時間にスーパーで買いものをしていただけの人と楽しそうに話し、評判のよい歯科医を紹介してもらっていたりするんです。母を見る限り、「出会った人はみな友だち」と思えれば、さびしさはなくならないまでも、薄れていくのではないかと思います。
命あるものはみな友だち。出会う人はみんな。