※本稿は、大愚元勝『思いを手放すことば』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「理解し合える親友」はいずれいなくなる
親友がいる人がうらやましい。
結論から言うと、「理解し合い、なんでも話せる」一生ものの親友がいる人はいないと思います。人との関係は、変化するものだからです。
学生時代に仲がよかった友だちから数年ぶりに連絡があり、うれしくなって会いに行くと保険の勧誘をされた、なんて話は珍しくありません。こんなことが起こるのは、人間は移りかわっていく存在だからです。
自分を振り返ってみてください。学生時代の自分、結婚した自分、転職した自分、子どもをもった自分……。暮らし方や考え方がどんどん変化し、それに合わせて人間関係もかわってきているのではないでしょうか。小中学校時代の親友とのつき合いが続いているとしても、つき合い方はかわっていると思います。
今はすべてを分かち合えるような関係でも、いずれ状況はかわるもの。それに伴って気持ちのズレも生じます。お互いに親友と思っていられる期間は、それほど長くないのが普通だと思います。
お釈迦様は親友ではなく「善友」を探せと説いた
そもそも「自分のすべてを理解し、なんでも話せる親友」という存在は、人間の希望と幻想がつくりあげたもののような気がします。他人をそこまで寛容に受け止められる人間がいるなんて、とても信じられません。
そんな友を探してもむだだとわかったから、人は神を求めたのだと思います。自分のすべてを理解し、受け止め、認めて許してくれる存在として、神を信じるようになったのではないでしょうか。
釈迦は、親友ではなく「善友」を求めなさい、と説いています。善友とは、人格的にすぐれ、自分の先を行ってよい影響を与えてくれる人のことです。
弟子のアーナンダが「善友がいることで、修行のどのぐらいが達成できるのですか?」と尋ねたとき、お釈迦様は「すべてです」と答えています。自分を導き、押し上げてくれるような友の近くにいることには、それほど大きな価値があるということです。