「寂しいから誘う」より「分かち合いたいから誘う」

人から誘われることが少なくてさびしい。
自分はだれからも必要とされていないのでしょうか。

人を誘う動機には、2種類あると思います。ひとつめが、自分のさびしさや不安を紛らわすため。相手がさびしそうだから、友だちとして一緒に何かを楽しみたいからと誘うのではなく、自分の心の空白を埋めることが目的です。

ふたつめが、よいものを分かち合うため。友だちが好きそうな美術展を一緒に見に行きたい、運動不足を気にしていた友人をハイキングに誘いたいなど、相手も喜んだり楽しんだりしてくれることを望んでいます。

誘われたときにうれしいのは、分かち合うための誘いです。自分がさびしいからとだれかを誘うのは、相手から安心などを与えてもらうため。「私にやさしくして」と求めているにすぎません。

これに対して分かち合うための誘いは、相手に何かを与えようとするもの。相手のことを考えて「私と一緒にこれをいかがですか?」と差し出しているんです。

ギフト
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大切にする相手を限定してしまっていないか

誘われないことにさびしさを感じるのは、もらうことを求めるばかりで、人に与えてこなかったからかもしれません。他人に与えられる人には、与えてくれる友がいるものだからです。

大愚元勝『思いを手放すことば』(KADOKAWA)
大愚元勝『思いを手放すことば』(KADOKAWA)

お釈迦様は修行者に対して、「さいの角のようにただ独り歩め」と説いています。愚かな友と群れるぐらいなら、孤独に生きていきなさい、ということです。

ただし、修行中ではない人まで「犀の角」になる必要はありません。孤独は悪くないとわかっていても、つらいものです。職場や地域、趣味のグループなど、人とつながれる場は多くもっておいたほうがよいと思います。こうしたコミュニティをきっかけに、誘ったり誘われたりする関係も生まれるのではないでしょうか。

お釈迦様は性別も民族も関係なく、すべての命を慈しむことを勧めています。私たちは大切にする相手を、家族や恋人、親しい友だちなどに限定してしまいがちです。

でも、それ以外の相手にも「友」という感覚を広げてみてください。大切にする相手が一気に増えますよね。