「これがマッキンゼーという会社なんだ」

日立時代はいちいち出張申請しなければならなかったし、グリーン車に乗ったら交通費がどうなるとか、出張内容より出張の仕方のほうが大事だった。しかし、ここではそんなことは問題にならない。

次々に電話をして情報を集め、さっさとマーケットなりフィールドに飛び出していって、専門家やユーザーの意見を集める。大陸横断は朝飯前。夜行で帰ってきて、次の日は別の仕事に取り掛かっている、という感じ。すさまじい回転力である。

アビーの仕事ぶりを間近で見ていて、「これがマッキンゼーという会社なんだ」と思った。特定のテーマについて調べまくる。何を知っているかは関係ない。知識がない私でも情報を全部集めてみると、「これか」と見えてくることがある。勉強して得た知識よりも、足を使って集めた情報のほうがはるかに役立つ。情報を集めた者勝ちなのだ。

チームの総責任者であるボブ・ウォーターマンは1~2週間に1回ぐらいしか顔を出さなかった。状況を説明すると、1つ2つ偉そうなことを言って終わり。ほとんどアビーと私のチームだった。

「思い出のサンフランシスコ」(原題“I Left My Heart In San Francisco”)は1962年にシングル盤で発売された大ヒット曲。トニー・ベネットは1926年生まれのアメリカのポピュラー歌手。2011年にはアルバム「Duets II」でレディー・ガガとも共演している大ベテランの実力派。

サンフランシスコ事務所の入っているバンク・オブ・アメリカビルからケーブルカーも走っているカリフォルニア・ストリートという急な坂道を上ると、トニー・ベネットが「思い出のサンフランシスコ」を毎晩歌っていたフェアモント・ホテルがある。その通りを右に行ったロシアン・ヒルという景色の良いところにアパートを借りて、生活していた。

カミさんは3か月ほどで先に日本に帰った。彼女はアメリカの音楽大学を1年で辞めてきているから、日本で学位を取り直すために上智大学の国際学部に入学して、心理学を専攻した。ニューイングランド音楽院で取得した単位の一部を移せたようだった。

さらに日本フィルハーモニーオーケストラで長くオーボエの首席奏者を務めた鈴木清三先生に師事して、オーボエのレッスンにも通った。いよいよ東京における人生をフルにエンジョイし始めたという感じである。

私はといえば、サンフランシスコ事務所で気に入られて、「日本で仕事がなければこっちでやっていけ」という話になり、しばらくアメリカに留まって仕事を続けた。

次回は「日本で最初の大きな仕事」。7月16日更新予定です。
 

(小川 剛=インタビュー・構成)