観光用にねじ曲げられた

しかし、図面も古絵図もひな形もなく、不鮮明な写真だけを頼りにした再建だから、外観がきわめて大雑把に再現されたにすぎない。また、目的が観光客の誘致で、当時は、天守の最上階は視界がよくなければならないという思い込みがあった。しかも、外に出られるのがベターだと考えられていた。

そこで岡崎城の天守も、古写真で見るかぎり、最上階には小さな窓があったにすぎないはずなのに、大きな開口部を設け、さらに廻縁と欄干までつけてしまった。

いまの岡崎城は家康の城ではない、というだけではない。家康の手を離れたのちに改修された城を、形をねじ曲げて再現した、といっていいシロモノなのである。

平成5年(1993)に建てられた大手門が、元の位置からはかなり遠い旧二の丸内に建っているのも、いかがなものだろうか。

歴史的事実とはなんら関係がない浜松城

じつは、家康が岡崎の次に居城にした浜松城も、似たような経緯をたどっている。

浜松城も、家康時代についての具体的な記録は残っていないが、本丸を中心とした中枢部の構造は、複雑に折れ曲がった石垣などに自然丘陵のかたちが反映されていて、家康時代の姿をかなりとどめていると考えられている。

ただし、いまも残る天守台などの石垣を築いたのは、やはり家康が関東に移ってのちに入城した、豊臣系大名の堀尾吉晴だと想定されている。ちなみに天守は、17世紀半ばに幕府に提出された「正保の城絵図」にはすでに描かれていないので、それ以前になんらかの理由で失われたものと思われる。では、昭和33年(1958)年に鉄筋コンクリート造で建てられ、最近、『どうする家康』の放送開始に合わせて化粧直しが終わった天守は、なにを参考に建てられたものか。

400年近く前に失われ、写真はおろか絵図もなにも残っていないので、なにも参考にするものがなかったというのが現実である。要するに、歴史的事実とはなんら関係がない建物なのだ。おまけに、当時の予算の都合で、天守台東側の約3分の2だけを使ってこじんまり建てられている。

浜松城の復興天守は、石垣の3分の2しか使っていない
筆者撮影
浜松城の復興天守は、石垣の3分の2しか使っていない

家康ゆかりの地めぐりで気を付けること

家康ゆかりの地を訪れるのはいい。しかし、現実には、このように家康とは縁もゆかりもないものが、いかにも家康と深い縁がありそうな顔をして待ち構えているので、チェックが欠かせない。

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