現在の城のひな型を作ったのは秀吉の武将
だが、岡崎城がいまに通じる姿に改修されたのは、豊臣秀吉の時代になってからだ。家康が関東に移封になると、岡崎城には豊臣系大名の田中吉政が入城。城の西側の湿地を埋めるなどして城域を拡張するとともに、城下町全体を堀で囲んだ。
そして、本丸の周囲には近郊で産出される花崗岩を積み上げ、石垣を築いた。要するに、家康の手を離れてようやく、岡崎城は石垣で囲まれ、瓦を葺いた立派な建物が建ち並ぶ城になったのだ。そして、天守も建てられたようだ。
当時の岡崎城が、関東の家康に対する防衛線を兼ねていたわけで、家康にとっては、自分の生地が自分への備えになるという、皮肉な状況だったのである。
現在、天守が建っている石垣(天守台)は、自然石を割った割石を、多少加工して積み上げたという積み方から、田中吉政時代にさかのぼるのは確実だと見られている。
しかし、田中吉政が建てた天守は、完成後、そう時間を得ないうちに、なんらかの理由で失われてしまったらしい。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いののち、岡崎城がふたたび徳川の支配下に戻ると、譜代大名の本多氏が入城し、元和3年(1617)に天守を再建したようだ。
この2代目の天守は、明治6年(1873)に取り壊されるまで残っていた。
「どこ行く家康」の対象である現在の岡崎城は、家康の居城だったころから数十年のあいだに、頻繁に改修を加えられ、発展したのちの姿であることが、わかってもらえたと思う。
では、いま岡崎城に建っている天守は、どんな由来のものなのか。一応、明治に取り壊された2代目の天守を復元したという建前にはなっているが、少々やっかいな存在だといえなくもない。
古写真をもとに作られた鉄筋コンクリ城
経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した昭和31年(1956)ごろから、天守を復興しようという動きが全国で活発化した。その中心は名古屋や広島、岡山、和歌山など、戦災で天守を失った都市で、故郷のシンボルを取り戻したいという思いが込められていた。
こうした都市が、二度と焼失しないように鉄筋コンクリートで天守を再建する道を選んだのは、わからないではない。だが、この動きは全国の元城下町に波及した。過去に失われた天守を再建すれば、観光客を呼び寄せることができる、という発想で、全国に鉄筋コンクリート造の天守が乱立することになったのである。
そして、岡崎城にも昭和34年(1959)、明治初期の取り壊し前に撮られた数枚の古写真を頼りに、鉄筋コンクリート造で天守が建てられた。