氏真の背後には甲斐の武田氏、相模の北条氏もいた。三者が同盟関係にあった以上、家康としては軽々に今川氏と断交する決断などできるはずもなかった。

そして、何よりも正室瀬名と幼い長男信康と長女亀姫が駿府城下にいた。人質に取られた格好だった。

となれば、家康が桶狭間の戦い後も、今川氏に従って信長との戦いを続けたことは何の不思議もない。実際のところ、西三河の城で信長に属していた西加茂郡の挙母・梅ケ坪・広瀬、沓掛城を攻撃している。

狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

今川氏から一門として厚遇された家康

幼少期の家康が居城岡崎城を離れ、遠く駿府での生活を強いられたことは良く知られている。よって、今川氏の人質だったイメージは今なお強いが、近年の研究はそのイメージに変更を迫っている。松平氏が従属の意思を示すために送った人質には違いなかったが、今川氏ではむしろ家康を厚遇していたからである。

家康が今川氏の本拠地たる駿府に送られたのは、天文十八年(一五四九)のことである。八歳の時から十年余、駿府での生活が続いたが、その間、今川氏は家康を一門として処遇した。その象徴こそ、今川氏の重臣関口氏純の娘瀬名を娶らせたことだった。家康十六歳の時だった。瀬名は義元の姪にあたったため、この婚姻により家康は義元と姻戚関係になった。

十四歳の時、家康は元服して松平元信(後に元康と名乗る)と名乗るが、「元」の字は義元から賜ったものである。いわゆる偏諱だが、これもまた今川氏による厚遇の表れだった。義元の軍師太原雪斎から教育を受けたことも、今川氏が家康を大事に扱ったことを示すものに他ならない。

こうした事実から、今川氏が三河の有力領主(国衆)の家康を厚遇したことは明らかとされる。一門として処遇することで今川氏を支える柱石として成長するのを期待する目論見が秘められていた。

そして、桶狭間の戦いでは先鋒を命じた。尾張が隣国にあたったこともさることながら、それだけ家康は戦陣での働きを期待したのである。

北条・武田氏との提携を優先させた今川氏

当時の家康が置かれていた状況からすると、今川氏と断交するメリットはなかった。というよりも、デメリットの方が大きかった。それゆえ、義元が討たれたからといって、すぐさま今川氏と断交する積極的な理由などなかったと考えるのが自然だろう。

ところが、今川氏が三河への影響力を弱めていったことで、状況が一変する。そのきっかけとなった出来事が関東で起きていた。

今川氏と同盟関係にあった北条氏は、桶狭間の戦いから三カ月後にあたる八月より越後の長尾景虎(上杉謙信)による関東侵攻を受けていた。翌四年(一五六一)三月には居城小田原城での籠城戦に追い込まれる。

これに対し、北条氏は同盟関係にあった武田氏に支援を要請し、武田氏の援軍が小田原城に入っている。北条・武田VS上杉の図式で合戦は展開したが、同じく同盟関係の今川氏も北条・武田陣営としての行動を要請されていた。