※本稿は、茂木健一郎『「本当の頭のよさ」を磨く脳の使い方』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。
ここ数十年の日本の教育に対する不満
日本は教育大国だと、長年言われてきました。
資源のない小さな島国が国際社会で存在感を発揮するには、僕たち1人1人が知性を磨かなければならない。日本では、人間こそがすなわち資源なのだ──。そんなことを学校の先生から教えられた人もいるのではないでしょうか?
そう、本来、教育とは知性、本当の頭のよさを磨くもののはずです。しかし、僕には、ここ数十年の日本の教育が日本人の本当の頭のよさを磨いてきたとは、到底思えないのです。
千利休、幕末の志士に感じる「頭の良さ」
たとえば僕は、千利休(1522〜1591)はとてもクレバーだと思います。利休が発見した「わび」「さび」の概念は、世界中で尊ばれ、好まれる美意識、コンセプトです。
ちなみに「わび」とは足りないものに美を見出すこと、「さび」とは時間の流れとともに変質していったものに美を見出すことです。大事なのは、千利休が発見したといっても、彼が「これがわび・さびです」と確立したわけではないということ。
たとえば水墨画の大家、長谷川等伯や雪村などもわび・さびの極地と言っていいと思いますが、かつて日本に通底していた、そういった美意識を見出し、論理立て、わび・さびと名づけたのが千利休だったのです。
また、明治維新という出来事も、全体を通じて非常な知性を感じさせます。外国から開国を求められている、しかし国内も一枚岩ではない、国内をまとめ外国の勢力に対抗しなければならない。
「ペリーを怒らせるのは嫌だしなあ」「将軍の顔を潰しちゃいけないしなあ」「薩摩は長州より格が上だぞ」なんて、重要な登場人物の誰か1人でも情緒に任せて動いていたら絶対に成功しませんでした。
明治維新を成し遂げた薩摩や長州の人たちは、いや、はからずも対抗勢力となってしまった江戸幕府の人たちも、我が藩の利益だけでなく、立場は異なっていても日本という国について考え、選択をしたはずです。