春樹を解きはなつために

私にとって、春樹はながらく、

「好きとはいえないが、新刊がでたらかならず読んでしまうふしぎな作家」

でした。

「文化的前衛」の作家や批評家のなかで、比較的鋭敏な人びとは、じぶんたちと春樹のちがいに気づいていました。そして、じぶんたちの立場をはっきりさせるための仮想敵として、不当なほどつよく、春樹をバッシングしました。

ミーハーな「ヨサク」であり、「文化的前衛」を支持していたかつての私は、その種の「春樹バッシング」を真にうけていました。「ヨサク」のくせに、春樹の「僕」になったつもりにならなかったのは、春樹作品をいろどる「かっこいいサブカルチャー」と、縁どおい青春をおくったからです。「春樹バッシング」に共鳴したのも、「僕」にジェラシーをおぼえていたせいかもしれません。

冒頭にも書いたとおり、この連載をはじめるにあたり、私は春樹の作品を大量に読みかえしました。そのなかで、作家としての筆力のすごさをおもいしらされるとともに、「ヨサク」世代よりわかい書き手につうじる面を、春樹がいろいろそなえていることに気づきました。

村上春樹は、「ヨサク」の「じぶん語り」のダシにばかりつかわれていていい作家ではありません。

現代という「若者殺しの時代」をかえていくことは、私ひとりの力にはあまります。けれども、春樹の語られかたの風とおしを、すこしぐらいよくすることならできるかもしれません。そして、その作業をつうじて、じぶんをふくめた「ヨサク」の問題点をあぶりだすことができたなら――そんなねがいをこめて、この連載にとりくんでいこうとおもいます。私なりに力をつくすつもりです。どうかよろしくおねがいします。