春樹が春樹であるのはいいが……

日本文学研究者
助川幸逸郎
1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』、『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)などがある。最新刊は、『光源氏になってはいけない』(プレジデント社)。
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この連載をはじめるにあたり、村上春樹の主要作品を読みかえしてみました。

最新作の『1Q84』をべつとして、どの作品からも、かつてよりもふかい感銘をうけました。以前は読みながしていた細部に、つよいリアリティがやどっていると気づかされたのは、一度や二度ではありません。とりわけ、『ねじまき鳥クロニクル』で間宮大尉が体験する「古井戸の底の、一日十数秒だけの至福の時」のイメージは、鮮烈に心にささりました。

春樹の「小説書き」としての力量には、やはりこころからの敬意をおぼえます。

「だったらどうして、『村上春樹になってはいけない!』などというタイトルの連載をはじめるのだ?」

――そういう疑問が、当然、でてくることとおもいます。

むかしのスポーツ中継の動画をみていると、30歳以上の「ベテラン選手」の顔だちが、80年代前半から急にこどもっぽくなっていることに気づきます。日本社会はその時期に、

「おとなにならないほうがトクする時代」

に突入したのです。

60年代におとなに反抗していた若者は、このころ40歳前後になろうとしていました。じぶんたちが矛先をむけていた「社会を運営する立場」を、いやおうなく引きうけさせられる年齢です。ほんらいなら彼らは、おおいになやむはずでした。

ところが、ちょうどこのタイミングで、バブルの好景気がはじまりました。慎重だったり真剣だったりするのは「かっこわるい」とされ、ノリで行動することが称賛される世のなかがやってきました。

責任をともなうはずの地位をえた、かつての「反抗する若者」は、こうした風潮のおかげで、責任をとわれずにすみました。バブルの時代には、責任をとろうとする姿勢そのものが、深刻すぎてさえないように見えたのです。

「もたざるもの」のメンタリティをもったまま、「もてるもの」になる――そんなムシのいい境遇を手にしたのは、60年代に若者だった人びとだけではありません。「もてるもの」になっても、それにともなう責任をかんじない傾向は、いまの40代――バブル期に青春をおくった世代――にまで共有されています。

「反抗する若者」だったころの自己イメージを、いつまでも更新できずにいるおじさん、おばさんを、ある文芸評論家が「ヨサク」と呼んだことがあります。いくつになっても、無垢で無力な若者としてじぶんをイメージしているという意味でなら、現在60代から40代にかけての人びとは、大半が「ヨサク」です。