春樹が春樹であるのはいいが……
この連載をはじめるにあたり、村上春樹の主要作品を読みかえしてみました。
最新作の『1Q84』をべつとして、どの作品からも、かつてよりもふかい感銘をうけました。以前は読みながしていた細部に、つよいリアリティがやどっていると気づかされたのは、一度や二度ではありません。とりわけ、『ねじまき鳥クロニクル』で間宮大尉が体験する「古井戸の底の、一日十数秒だけの至福の時」のイメージは、鮮烈に心にささりました。
春樹の「小説書き」としての力量には、やはりこころからの敬意をおぼえます。
「だったらどうして、『村上春樹になってはいけない!』などというタイトルの連載をはじめるのだ?」
――そういう疑問が、当然、でてくることとおもいます。
むかしのスポーツ中継の動画をみていると、30歳以上の「ベテラン選手」の顔だちが、80年代前半から急にこどもっぽくなっていることに気づきます。日本社会はその時期に、
「おとなにならないほうがトクする時代」
に突入したのです。
60年代におとなに反抗していた若者は、このころ40歳前後になろうとしていました。じぶんたちが矛先をむけていた「社会を運営する立場」を、いやおうなく引きうけさせられる年齢です。ほんらいなら彼らは、おおいになやむはずでした。
ところが、ちょうどこのタイミングで、バブルの好景気がはじまりました。慎重だったり真剣だったりするのは「かっこわるい」とされ、ノリで行動することが称賛される世のなかがやってきました。
責任をともなうはずの地位をえた、かつての「反抗する若者」は、こうした風潮のおかげで、責任をとわれずにすみました。バブルの時代には、責任をとろうとする姿勢そのものが、深刻すぎてさえないように見えたのです。
「もたざるもの」のメンタリティをもったまま、「もてるもの」になる――そんなムシのいい境遇を手にしたのは、60年代に若者だった人びとだけではありません。「もてるもの」になっても、それにともなう責任をかんじない傾向は、いまの40代――バブル期に青春をおくった世代――にまで共有されています。
「反抗する若者」だったころの自己イメージを、いつまでも更新できずにいるおじさん、おばさんを、ある文芸評論家が「ヨサク」と呼んだことがあります。いくつになっても、無垢で無力な若者としてじぶんをイメージしているという意味でなら、現在60代から40代にかけての人びとは、大半が「ヨサク」です。