春樹は「ヨサク」の主流ではない

そもそも、春樹の「僕」は、「ヨサク」のお仲間なのでしょうか? 「ヨサク」たちの「無責任」を免罪するために、春樹は甘美な子守唄をつむいだのでしょうか?

60年代に学生運動をして、政治的前衛意識をもっていた人びとは、70年代になると、多くが「文化的前衛」に転身しました。政治における挫折を、音楽や文学のなかで解消しようとしたわけです。この種の「文化的前衛」は、世界じゅうにあらわれました。日本では、イエローマジックオーケストラ(YMO)のメンバーや、作家の高橋源一郎がその代表です。

70年代から80年代にかけて、「ヨサク」の主流派は、「文化的前衛」を熱心に支持していました。わかりもしないフランス現代思想の本を小脇にかかえ、池袋のセゾン美術館(1999年に閉館)で現代美術を鑑賞する――そうしたふるまいが、この時代には「かっこいい」とみなされていたのです。そして、これまで日本にはいないタイプの作家だった春樹も、デビュー当初は「文化的前衛」のひとりにかぞえられていました。

けれども春樹は、「文化的前衛」にまったく共感していません。たとえば、2004年におこなわれたインタビューで、ブルース・スプリングスティーンとレイモンド・カーヴァーについて、彼はこんなふうに語っています。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです [著]村上春樹 (文藝春秋)

「……そのフォームには、一見して前衛性や実験性のようなものは感じられない。だから、スプリングスティーンもカーヴァーも、多くの知的エリートからは、『おまえら何も新しいことしていない。体制的だ』と教条的な批判を受けることになります。でもそういう知的エリートって、僕は思うんだけれど、だいたいにおいて富裕なインテリ層出身で、60年代に『いいとこどり』みたいなことをしてきたやつが多いんです。(中略)スプリングスティーンもカーヴァーも、その音楽をじっくり聴けば、あるいはその小説をじっくり読めば、決してコンサバじゃないんです。どちらも、保守化したレーガニズムの社会に対する自分たちなりの強固な異議申し立てを行っています。切り捨てられた弱者の痛みをありありと描いています。でもそれらの異議申し立ては、いわゆる60年代世代の前衛主義、ラディカリズム、ポストモダニズムとは無縁の場所から発せられています。」(『夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2009』)

ここで語られているふたりのうち、とくにレイモンド・カーヴァーには、全作品の翻訳を手がけたほど春樹はいれこんでいます。「60年代世代の前衛主義、ラディカリズム、ポストモダニズム」――ようするに「文化的前衛」――への、春樹の違和感は強烈です。

東西冷戦が80年代末におわったあと、武力紛争のない時代がやってくることを、世界じゅうの人びとが期待しました。しかしこの期待は、たちまちうらぎられます。民族間対立や宗教テロが、90年代の世界ではいたるところでおこりました。その結果、「歴史の進歩」をだれも信じなくなり、「前衛的なもの」は、文化の領域においても魅力をうしないました。

「文化的前衛」の影響力も、95年ぐらいをさかいに急速に後退します。春樹が国内だけでなく、国際的にも注目されるようになったのは、ちょうどこの時期のことです。

「文化的前衛」がいきおいをなくすのと入れかわるように、春樹はさらなる飛躍をとげたのでした。このことからも、「ヨサク」主流派御用達の文化人――「文化的前衛」――と、春樹がおおきくことなっていたことがわかります。