「ヨサク」のための子守唄

堀井憲一郎さんに『若者殺しの時代』という著作があります。

バブルが崩壊して、社会にゆとりがなくなっても、若者意識がぬけきれない「ヨサク」さんたちは、

「じぶんの取りぶんをへらしても、下の世代にむくいる」

という「おとなの発想」をしませんでした。そのしわよせで、若者にわりあてられる権利や富は、どんどんすくなくなっています。

中高年は既得権益にしがみつき、そのゆがみは若者におしつけられる――堀井さんの著作は、日本社会のこうした現状に警鐘をならすものです。

「ヨサク」のもたらす「弊害」は、堀井さんが指摘する点だけにとどまりません。

あと数年のうちに、「ほんものの世紀末」がやってきて、世界は混乱にまきこまれると、多くの人が予測しています(この点については、この連載の後半でくわしくのべるつもりです)。これに対応するために、日本社会も大規模な変革を必要としています。にもかかわらず、「ヨサク」たちには、ほんきでかわろうとする意志がありません。現在「もてるもの」のがわにまわっているおじさん、おばさんは、状況が一新され、既得権益をうしなうのがこわいのです。

「ヨサク」たちの、こうしたこまったありかたに、うってつけの「いいわけ」を提供したのが、村上春樹の「僕」でした。

春樹の小説に登場する「僕」は、同世代の人間がくりひろげていた学生運動にも、80年代の消費社会にも、おなじようにシニカルなまなざしをむけています。

「世のなかのメインストリームのがわにながされていったら、『システム』にからめとられるのはさけられない。かといって、『システム』と正面からたたかってもかならず敗ける。われわれには、こころに壁をつくり、『システム』に内面をゆずりわたさないようにすることしかできない。だから、春樹の『僕』のように、じぶんの殻に閉じこもるとしよう……」

――こんな思考回路をたどることで「ヨサク」たちは、「システム」に加担して「もてるもの」となることと、無垢な「もたざるもの」のつもりでいることを、両立させました。「もてるもの」としての責任をとらない姿勢も、時代の大勢とたたかってもしかたない、という言いわけをもちだして、正当化してしまいました。

春樹当人に罪はないにせよ、「やれやれ」という「僕」のつぶやきが、矛盾をかかえた「ヨサク」を安眠させる子守唄の役目をはたしたのです。

私じしんは、1967年うまれ、バブル世代の中核にいます。そうしたじぶんに対するいましめもかねて、

「『ヨサク』は、春樹の『僕』になったつもりになってはいけない」

と、うったえてみたくなったのです。