境界知能では、小学校高学年以降に登場する抽象概念を理解することが困難ですが、それは「本人の努力が足りない」からだとされ、適切な支援を受けることもなく放置されています。

偏差値(知能)はベルカーブで、平均(偏差値50)付近がもっとも多く、平均から外れるほど人数が減っていきます。メディアは一流大学に入れる偏差値70や80の子どもたちばかりを話題にしていますが、その反対側には、同じ数の偏差値30や20の子どもがいます。

この事実を無視するのは、読者・視聴者を不快にすると恐れているからでしょう。このようにして、社会は偏差値60ぐらいを基準に構築されるようになります。税金の申告が典型ですが、大学を出ていても、自力での手続きが難しすぎてあきらめてしまう人がたくさんいますよね。

知能は努力か才能か?

「知識社会」は定義上、知能の高い者が大きなアドバンテージをもつ社会ですが、こうした当たり前のことを言うと、「人間を能力で決めつける差別だ」と言われてしまいます。皮肉なのは、社会正義を求める人たちこそが、この知識社会をつくってきたということです。

リベラルな社会では、人種や性別、出身地、性的指向など、「変えられない属性」によって個人を評価することは差別として否定されます。しかしその一方で、組織を運営するには、誰を採用・昇進させるか評価をしなくてはなりません。

個人の「属性」で評価できないとしたら、残るのは「努力によって獲得したもの」だけです。それが「学歴・資格、実績、経験」という“メリット”で、それのみで社会的・経済的地位が決まるリベラルの理想が「メリトクラシー」社会です。

メリトクラシーによって私たちは身分制から解放されましたが、「知能は個人の努力で向上するのか」という新たな難題を突き付けられました。行動遺伝学は知能の遺伝率が60~70%であることを半世紀かけて証明しましたが、この事実がずっと無視されてきたのは、知能の遺伝を認めてしまうと、メリトクラシーを支えていた土台が崩壊してしまうからです。

不遜なバカと謙虚な賢者

「バカ」の問題は、自分がバカであることに気づいていないことです。これは、ダニング=クルーガー効果という認知バイアスとしてよく知られています。

大学生のテスト結果と、自らの予想を調べたところ、論理的推論能力(数学)では、下位4分の1の学生は、実際の平均スコアが12点だったにもかかわらず、自分たちの能力は68点だと思っていました。それ対して上位4分の1の学生は、平均スコアが86点にもかかわらず、自分たちの能力は72点しかないと思っていたのです。

「バカ」は自分を(大幅に)過大評価し、賢い者は自分を過小評価している。この錯覚によって、現実に存在する知能のばらつきが見えなくなり、誰もがより平等になります。