「汚くないけど、きれいでもない」ならいいんじゃない?
汚い服というわけでもないけれど、一度着たから多少汚れていて、もう一度着るかもしれない服についてどうしたらいいかと聞かれることがあります。私の経験で言えば、こういった衣類はそこらへんの椅子の上に積み上げられることが多いですね。
衣類のための椅子が機能しているのだったら、それでいいじゃないですか。変える必要はありませんよ。私たちは暮らしやすさについて話をしていて、家の中に「汚くないけど、きれいでもない」衣類を収納する椅子だとかバスケットを置くスペースがあって、それが気にならないのであれば問題なんてありません。
その日に着たシャツがあって、汚れた衣類を入れるバスケットに入れるほど汚いわけじゃなかったら……きれいな服のバスケットに戻しますね。大丈夫。問題ありません。
問題というか、実際、すごくないですか? わが家では、ランドリーバスケットかクローゼットの中に衣類が収まっていて、私の人生をシンプルにしてくれているんだもの。
いいですか、洗濯物を管理する方法を見つけるかどうかなんて、結局のところ、さほど重要じゃないのです。本当に重要なのは、思いやりを持って自分に接し、洗濯に関してはより優しい語りかけを続けることです。もしベストな方法が分からなくても、恥を捨て、喜びを人生に感じることができるのなら、それはあなたの勝ちだと思います。
それは「スキル不足」ではなく「サポート不足」
本当に不足しているのはサポートだというのに、自分をスキル不足だと責めるのをやめませんか。セルフケアはコミュニティーケアの代わりではないのです。
「良い人間になろう」と努力すれば、そもそも少ないエネルギーを使い果たしてしまいますし、泣いたり、寝たり、小さな喜びを見つけることに時間を使ったほうがよいのかもしれません。サポート不足は、必ずしも誰かの責任ではありません。人生には、ゆっくり進まなくてはならない時期があるのです。
ゆっくりと生きなければならなかった時期を振り返り、優しく自分に語りかけています。「精一杯の、ベストを尽くしたよね」と。
ベストを尽くすとは興味深いことで、そのときはそれがベストだとは思わないのです。ベストを尽くしているときは、ほとんどの場合、自分では失敗しているように感じています。
リハビリ施設にいた16歳のときの私を振り返ってみると、孤独に涙を流し、自分は価値のない人間だと考え、常に進歩がないと言われ続けていました。当時、ベストを尽くしている私を見て、誰かがそう言ってくれればよかったのにと思います。
でも仕方のないことです。今、昔の私に、常に言ってあげていますから。