興味があるからこそ、本当の意味で学ぶことができる

原始的な社会に比べると、現代社会の環境はずいぶんと抽象的なモノやコトで構成されています。例えば、都市にはさまざまな建築物やインフラ、制度が存在していますが、それがどんな意味を持っているのか、どう関わっていけばよいのかを、前提知識や教育なしに理解することは難しいでしょう。

親からしてみれば、撮影スタッフなしに毎日『はじめてのおつかい』を子どもにさせるようなもので、子どもにとっては相当にキツいことではありますね。現代において社会から評価される能力を発現するには、まずある程度抽象的な事柄を理解できる高度な知的能力が必要になってくるという矛盾があります。

そういう知識を本当の意味で学ぼうとすると、よほど興味があって自分から進んで学ばない限り、学校教育で提供される学習機会だけでは初等、中等教育段階で学ぶのは無理でしょうし、高等教育段階でも相当困難なことではないかと思います。

経済がどう回っているかとか、どうやって国の意思決定が行われているかとか、上下水道がどんな仕組みになっているかとか、「そんなことは20歳になる前に、全部理解した!」なんていう人はおそらくほとんどいないでしょう。ざっと本で読んで知識としては知ったつもりでいても、そうした知識が自身の持つ素質と相互作用し、能力として発現するかどうかとは別問題です。

子供に知識を与えるだけでは才能を育てることはできない

何も私は、「人間が能力を発現するには、自然に帰らないとダメだ」と主張しているわけではありません(そうしたいという人を否定しているわけでもありませんが)。平準化され官僚化された教育制度の中で、高度に抽象化された知識を子どもに与えても、それに関連した能力が都合よく発現するわけではないということです。

子供の知識のイメージ
写真=iStock.com/metamorworks
※写真はイメージです

大自然が与えるリアルな環境刺激に比べて、非常に抽象化された知識や決まり(科学法則や法律や慣習)で出来上がっている現代社会において、それらをうまく活用できる高度な能力が、教育を受けるだけでストレートに獲得できると期待するのは無理があります。

一方で現代社会でも、個人の遺伝的素質は身の回りの些細で具体的な事柄に対して発現します。するとそれに自分で気づき、それにこだわって自らの力で育て上げる頭が必要になります。柔らかいクッションと硬い壁面の違い、室内の色彩や意匠、人の話し声に、モノが立てる音。

さらには、テレビやスマホや街の広告モニターから流れてくる映像や音楽、注意書きや書籍に記載されている文字やイラスト、家事や筆記のための道具、家の外には公園や商店があり、自転車や自動車が行き来している……。私たちの身の回りには実に多様な環境が存在しており、それらは意識せずとも各人が持つ素質と相互作用を行い、無意識のうちに統計的な確率計算を行って、自分なりの世界に関する内的モデルを作っています。