親が習いごとに神経質になる必要はない

さらに文化というものは、入口は違っているように見えても、中ではけっこうつながっているものです。最初、能力は身体的な感覚から発現するにしても、そのうち社会的な関係性など、抽象的な領域に進んでいくことになります。

例えばサッカーボールを蹴ることだけに夢中だった子どもが、戦術的なプレイの面白さに目覚めることもあるでしょう。一流の選手になれなくとも、それがやがて用具の開発や、人にプレイの仕方を教えること、あるいは営業やマーケティングに自分の適性を見出すことだってあるかもしれません。一見かけ離れたところに落ち着いたように見えるかもしれませんが、かつてサッカーに夢中になった経験から得た知識がその中で必ず生かされているはずです。

サッカーをする若者
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習いごとに関しては親がそれほど神経質になる必要はなく、子どもがやりたいと言ったら通わせてあげる、通うところやお金がなければ、休日にちょっと時間を作って自分で相手をしてあげるくらいで、たいがいはよいと思います。

遺伝的な素質とマッチすれば自然と才能は伸びていく

子ども自身があまり乗り気でないものを無理に習わせてもお金と時間の無駄です。子どもが興味を持って自分でやっていたこと、あるいは何となく始めた習いごとが遺伝的な素質とマッチしたのであれば、「もっとうまくなりたい」、「高度なテクニックや知識を学びたい」、「同じ興味を持っている人たちと仲間になりたい」という欲求がいずれ湧いてくるはずです。本格的にお金をかけるのは、そうした才能の片鱗が現れてからでも十分ではないでしょうか。

習いごとに貴賤はなく、そもそも子ども自身が興味を持たないと意味がありませんが、何らかの形で「本物」に触れる機会があることは、能力の発現にポジティヴな影響がありそうです。