「私はこれをします」というのがインプットのコミットメント。「私たちはこれを顧客に提供します」というのがアウトプットに対してのコミットメント。このアウトプットに対するコミットメントは、いまも失われていない「日本の持ち味」なのではないか。

たとえば、日本では「うちが提供している価値はこれだ」という軸足がはっきり決まっている専業企業に優れた業績を維持している会社が多い。総合メーカーに従属した子会社だったときには赤字の連続でフラフラだったのに、専業メーカーが買収したとたんスイッチが入って最高益を出したりする。日本電産の話である。メーカーだけでなく、さまざまな日本のサービス企業やインターネットを基盤にした新興企業をみると、いまでもアウトプットへの人々のコミットメントが成果のドライバーとして息づいている。「アウトプットにコミットする」というロジックが強く働くのは、依然として日本の持ち味だと思うのだ。

ソニーの井深大さんの「トランジスタはラジオだ」というセンス、これは日本の持ち味そのものだ。要するにトランジスタという技術は何のためにあるのか、その技術を使ってわれわれがお客に提供すべきものは何だろう、と素朴に考えた先にラジオがあった。こうしたアウトプットの発想を会社全体で共有すると日本の会社は強い。アメリカはではアウトプットに対するコミットメントをもつのはスティーブン・スピルバーグやスティーブ・ジョブズのような特定少数のリーダーに偏っている。あとは機能別のプロがそれぞれの持ち場でベストをつくすというやり方で勝ってきた。

日本のように「何にもない」わけではなかったスイスはエレクトロニクス産業で後れを取り、かつては世界で支配的な地位にあった時計産業でもデジタル化、クオーツ化で日本企業に追いまくられる。しかし、その後のスイスの時計産業は、複雑な機械式時計の魅力、それを支える職人のスピリット、斬新なデザイン、機能を超えた摩訶不思議な魅力を顧客に伝えるマーケティング、といった自分たちの「持ち味」に回帰することによって勢いを取り戻した。スウォッチのような革新的なコンセプトも生まれた。

菊池の言う通り、一義的に優れた「持ち味」の国などない。問題は違いである。日本には他の国がそう簡単に手に入れられない無形の「持ち味」が実はいくつかあるはずである。そこを忘れてしまっては未来もない。日本の持ち味の本質とは何か。『日本の半導体四〇年』からさらに30年が過ぎたいま、菊池の残したメッセージはまことに味わい深いものがある。

《 楠木先生の最新の読書記録がツイッターでご覧いただけます
ぜひフォローしてください。アカウントは
@kenkusunoki です 》