日本の「持ち味」とはなにか

日米の「持ち味」についてもう少し考えてみたい。菊池が言うところのアメリカの「持ち味」は、大きな対象を機能に分解して、それぞれに専門家を当てて、大所高所で計画を立てて実効したうえでそれを事後的に統合するというやり方だ。たとえばハリウッドの映画づくりは高度な機能専門化に支えられている。撮影、編集、脚本、キャスティング、監督……と各分野のプロがそれぞれに完成度の高い仕事をこなしていきながら、大作をつくりあげていく。プロデューサーは、大所高所から全体の構想を決めて、それを機能別ブロックに切り分け、それぞれの専門家を結集する。きわめて流動性が高い労働市場が柔軟な人材の調達を可能にしている。

ただ、このやり方だと専門化したそれぞれの人々のコミットメントの対象はインプットの枠を出ない。キャスティングの専門家はキャスティングだけ、カメラマンは撮影だけする。キャスティングも撮影もこの場合、映画という全体に対する部分であって、投入要素すぎない。だから、お客さんが喜ぶ顔とは無関係なところで、「優れたキャスティング機能」や「優れた撮影能力」が定義される。この場合、コミットするというのは、指定された機能ブロックをきちんと果たせますよ、専門家として実績もありますよ、つきましては私のギャラは○万ドルです、という成り行きである。「最終的に映画を見るお客さんがどう喜ぶか」は二次的な問題になる。それを考えるのはリーダー一人の仕事である。

ひるがえって日本では、黒澤明も、北野武も、ハリウッドのような映画づくりはしない。一人ひとりが個別の機能ブロックに分かれるのではなく、表面的には担当の仕事が違っていても、「要するにこれは何なのか」を考えながら仕事が進む。完成した作品丸ごとに対して人びとがコミットする。ジョブ・ディスクリプションに書いてあることは完璧にやりますが、書いてないことは一切しませんということではない。「全員が全体の一端を担う」のである。たとえばユニクロで言う「全員経営」。これは「全員で顧客にユニクロの価値を伝えていこう」という大方針である。この点がジョブ・ディスクリプションでガチガチに固められた店員が顧客接点の最前線にいる「グローバル企業」との差別化の源泉になる、という発想である。