「家族関係」はリスクの固まり
しかし、王になり栄華を極めたかにみえたオイディプスを待ち受けていたのは、「家族のリスク」でした。オイディプスが旅の途中で実父である先代の王をそれと知らず殺してしまい、その后であった実の母と結婚してしまっていたというのが、この悲劇の中心です〔ソポクレス(藤沢令夫訳)『オイディプス王』岩波文庫〕。
オイディプスの家族関係はたしかに突飛なものです。けれども、もともと家族というものは人々の心のあり方、経済状況や社会的威信などに関するリスクの固まりなのです。社会がこうした問題に対処しなければ、人生はまさに「親ガチャ」となります。
この「家族のリスク」を契機に、オイディプスは王位を失い、自身の眼を潰して喜捨を求めて生きるべく荒野にさまよい出ます。社会階層の階梯を一挙に滑り落ちたことになります。誰にでもありうる「困窮のリスク」に極端なかたちで遭遇し、老いを待たずして杖をつく「三本足」となるとはオイディプス自身まったく予想できないことでした。
ギリシア神話の専門家からすれば偏った読み方でしょうが、「オイディプス神話」の悲劇は、「成育と老い」「家族」「困窮」という人生の三つのリスクが交差するなかで生きることと深く関わっていると思います。
「ヤングケアラー」という言葉への違和感
ちなみに、息子たちに見放されたオイディプスが放浪の旅に出るにあたり、父のケアを担って旅に同行したのは、(ここでもジェンダーバイアスがあって)娘のアンティゴネーでした。
アンティゴネーは、今日でいえば自らを犠牲にしてケアに携わる若者、つまり「ヤングケアラー」でした。その後、オイディプスの死でケアを終えた彼女は、オイディプスに代わって王位についた叔父クレオーンが独裁的になるなか、兄が受けた仕打ちに抗議して命をかけて闘います。アンティゴネーは、家族をめぐる深い葛藤を乗り越えていったようにみえます〔ソポクレース(中務哲朗訳)『アンティゴネー』岩波文庫〕。
このことと関連して、今日問題になっている「ヤングケアラー」という言葉については、ある福祉団体の若いリーダーが、この言葉にもケアへの低評価が隠れているのではないかと述べていたことが印象的です。「若いのにケアなどさせられて可哀想」といったトーンで語られているのではないかというのです。
子どもや若者であれ誰であれ、人生を犠牲にケアを強いられたらそれは大問題ですが、ケアに携わること自体は、アンティゴネーにみられたように人を成長させうる。ケアの価値を見直し、ケアを担う条件を確保することこそ重要です。