「生活保護は恥ずかしいこと」というレッテル貼り
次に、公助としての生活保護や福祉について考えます。こちらは「困窮のリスク」に対処できたのでしょうか。税の大半が社会保険財源の補填に充てられていることもあり、公助には十分な財源が確保されずにきました。したがって給付対象は絞り込まれ、現実には受給世帯のほとんどが高齢、障害、疾病などを抱えた世帯となっています。
ところが生活保護法では第一条で「自立を助長すること」が目的であるとされていて、一部の政治家やSNS上の生活保護バッシングもあって、経済的に自立するべき(自立できる)人たちが依存しているのが生活保護であるかの外観がつくりだされてしまっています。この外観がよけいに生活保護に「恥ずかしいこと」というレッテルを貼ることになるという悪循環がすすみます。
さらに支え合いの実感を乏しくしているのは、いろいろな困難を抱えているのに、こうした共助や公助の制度を利用できない人たちが増大していることです。私はこうした人たちを「新しい生活困難層」と呼んでいます。
非正規雇用やフリーランスで不安定な就労に就いている人たちの多くが、社会保険には加入できないままです。子どもが発達障害でケアが必要で、自らもメンタルヘルスなどの困難を抱えていても、障害者福祉の制度の基準を満たさず、サービスを利用できないことがしばしばです。なんとか就労できていて、たとえば年収が200万円台後半くらいならば、なかなか生活保護の受給には至らないでしょう。
日本が社会保障の制度を備えているにもかかわらず、自助社会となってしまう背景がまずここに見いだせます。
市民間の「ヨコの不信」と政府へ抱く「タテの不信」
自助社会としての日本社会を考える場合、もう一つ大事なことは、この社会にはびこる不信という問題です。頼れるのは自分および自分と深い関係にある仲間しかいないと考えさせてしまう、そのような不信です。ここでは、市民間の「ヨコの不信」と市民が政府の制度に抱く「タテの不信」が相互に密接に関連しています。
前の項で、今日の日本社会は、相対的に安定した仕事に就いて社会保険に加入できる層、生活保護など福祉の受給層、「新しい生活困難層」に分断されていることを説明しました。この分断関係から、まず「ヨコの不信」が強まっています。
とくに「新しい生活困難層」は、生活保護を受給している人たちが自助でやれるはずという誤解もあり、自分たちも苦しいのになぜ彼ら彼女らだけが扶助を受けられるのかと疑念をもちます。また、この層は多くが非正規雇用であることからも、正規雇用で安定就労できている人たちに対しては、なぜこれだけ処遇が違うのかと不公平感を強めます。
こうした「ヨコの不信」は、税の使われ方や制度のあり方をめぐる不信でもあり、政治や行政に対する「タテの不信」と一体です。安定就労層は、社会保険財源への税補填などを受けているにもかかわらず、それが見えにくいこともあり、税はとられるだけだと考えがちです。
「新しい生活困難層」は、税の恩恵に与ることがいちばん少なく、制度への不信は強くなりますし、その不信が一部の政治家などから煽られることもあります。さらに生活保護や福祉を受給している人たちも、支援なき経済的自立の圧力や差別的なレッテル貼りに苦しんでいます。