社会保険・生活保護を利用できない「新しい生活困難層」
さて、自助社会を論じるのにギリシア神話から説き起こしたのでは、社会保障も福祉もない時代の話ではないか、と怒られてしまうかもしれません。自助社会といっても今は福祉国家で、共助や公助の制度があります。「成育と老い」「家族」「困窮」のリスクも対応がされているのではないか、と考える人も少なくないでしょう。
そのとおりです。実は日本にはなかなか立派な共助や公助の仕組みがあるのです。ここで共助とは、厚生労働省の用語法にしたがって、主には社会保険を指すことにします。地域での支え合いなどを共助ということもありますが、こちらには互助という言葉も使われます。そして公助というと生活保護などの公的扶助がまず挙げられます。
社会保険については、日本は国民誰もが医療保険と老齢年金に加入できるかたちをいち早くつくった国です。皆保険・皆年金と呼ばれる体制です。生活保護の制度も、無差別平等・必要即応といって、緊急性が高ければ誰にでも開かれた制度として設計されていました。これらの点では決して諸外国に劣ってはいないのです。
にもかかわらず、なぜここまで支え合いの実感が乏しいのか。まず、こうした諸制度が本来のかたちで機能せず、共助としての社会保険でも、公助としての生活保護でも、支え合いの制度であるのに自助原理が強調される傾向があるからです。
次に、社会保険に加入できず、生活保護のような福祉の制度も利用できない、「新しい生活困難層」ともいうべき人たちが急増しているからです。医療や介護、さらには障害者福祉のサービスの一部までが社会保険に紐付けされており、教育費も家計負担が大きいために、多くの人が生活を支えるサービスの利用に困難を感じています。
男性稼ぎ主が囚われてきた「自助幻想」
まず社会保険について考えましょう。医療保険や老齢年金などの社会保険は、安定して働けていて社会保険料をきちんと納めている人たちが、主には「成育と老いのリスク」および「困窮のリスク」に備える仕組みとされてきました。妻子を養う男性稼ぎ主の貯金箱のようなイメージです。
しかし、そもそも男性稼ぎ主が安定雇用に就けたのは、企業を潰さないためのさまざまな仕掛け(行政指導や企業集団内の株式の相互持合等)に支えられていたからです。また、保険料で運用されるのが社会保険の原則ですが、基礎年金や国民健康保険の財源にはたいへんな額の税金が投入されているのです。日本の社会保障予算の大半は、社会保険の財源を補填することに使われているといって過言ではありません。社会保険制度間で支援金や負担金を出しあう財政調整もおこなわれています。
ところがこうした行財政による支援や支え合いの実態は表には出ないために、多くの男性稼ぎ主が「自助幻想」に囚われてきました。そして彼らの年功賃金で扶養される家族は、大量消費の舞台となる標準世帯として理想化され、「家族のリスク」は覆い隠されていきました。