「マッキンゼーに来ないか」

卒業後、大前氏が日立に入ると聞いて、少し驚きました。研究者になるものだと思っていましたから。就職するにしても、これは偏見ですが、世界的に活躍する道を選ぶなら外国企業に行くのが自然だろうと思っていました。だから「日立って、そんなにすごい会社なのか」と思ったほどです。1年後にはその答えが出るわけですが(笑)

日立を辞めてマッキンゼーに移ると聞いたときには、「やはり普通のサラリーマン生活が合うわけない」と感じたし、当時、マッキンゼーがどういう会社かよくわからなかったのですが、面白そうな仕事を選んだと思いました。実際、彼は企業のコンサルタントから国家プロジェクトまで幅広い分野で活躍していく。コンサルティングの役割を日本にPRした意味でも、彼の功績はきわめて大きいと思います。

1981年頃に、「マッキンゼーに来ないか」と大前氏から誘われたことがありました。当時、タフツ大学(マサチューセッツ州メドフォードにある名門私立大学)で教えていたのですが、コンサルタントという仕事はとても魅力的に見えました。結局、それが縁で、私も大学から1年間の休みをもらってボストンのコンサルティング会社で勉強することになりました。

マッキンゼーとは比べ物にならない小さな会社ですが、とてもいい経験になりました。ただ如何せん、忙し過ぎた。案件を調査・分析して、解決策をクライアントに提示するという一連の作業は刺激的で面白いのですが、自分の時間がまったく取れない。あの忙しさの中で自分の時間を確保して、やりたいことをやるなんて私には考えられなかった。大きな仕事をいくつもこなして、遊びも両立している大前氏は立派というか、超人的だと思いました。

その上、平成維新の国民運動を興して、1995年には自ら東京都知事選挙に出馬するんですから。

大前氏が都知事候補として取り沙汰されるようになった頃には、「どうかな」と私は見ていました。表舞台に出るよりも政策的な後方支援がしたいと常々言っていたからです。

自分が立つというのは勇気が要る決断だったと思います。出馬には驚きましたが、結果は別にして、それはそれで正解なのだろうと思いました。

大前氏は自分が主張してきたことを、損得勘定抜きにして、広く日本の社会にメッセージを発信したいと思った。今、日本を変えなければならないと考えた。そのためにどうしても踏まなければならないステップが、東京都知事選だったのでしょう。

世の中、テレビの前でペラペラと偉そうなことを言いながら自分では一切動かない人、自分の発言が間違っていても責任を取らない人が大勢います。しかし大前研一は自分が問題提起し、提唱してきたことを都政の場で実現したいと考えた。東京から日本を変えようとしたのです。

自分が信じることを実現するためには、行動に移さなければならない。知恵を絞って政策を練り上げ、恥ずかしがり屋の彼が似合わないタスキを身にまとって、たくさんの人の前で声を枯らして訴えた。必死に努力した。

その姿がメッセージとして誰かに伝わる。少なくとも私には伝わりました。大前研一があれだけの勇気を振り絞ったのだから、政治家として自分がじっとしているわけにはいかない。大前氏が都知事選に出ていなかったら、私は社会党の委員長選挙には出ませんでした。

そういう意味で、彼のメッセージを受け取った人はほかにも大勢いて、「日本を変えよう」「変えなければいけない」という維新の志は、今の時代にもしっかり受け継がれていると思います。

次回は「日立に入社、即日辞表を提出」。5月14日更新予定。 

(秋葉忠利=談 小川 剛=インタビュー・構成)