初任給4万8000円
日立に入社してから半年後の1971年1月9日にアメリカからカミさんがやってきて、翌10日に結婚式を挙げた。3泊4日の新婚旅行は伊豆半島を車でぐるりと回って、楽しい新婚生活のスタートである。
六畳と四畳半の狭い社宅での新婚生活はまんざらでもなかった。石造りの古い流しで、カミさんが茶碗を落とすたびにチャリンと割れてしまうとか、風呂の火のつけ方がわからずに爆発させて髪がチリチリになったとか、小さなドラマはいろいろあって、それはそれで楽しい日々だった。
昔から新聞は取らないし、家にテレビもない。世間で何が起きているのかもわからないで、私はひたすら原子炉設計に没頭した。カミさんはプリンストン大学の聴講生として半年ほど日本語を勉強してからの来日だったが、日本でもラジオ講座を聴いて日本語の勉強を続けた。
日立工場では午後4時50分になると仕事終わりのサイレンが鳴る。ほとんどの社員は10分休憩して5時から残業がスタートする。私には彼らが電気製品のローンを払うために残業をやっているように見えた。
こっちは絶対に残業をやらない主義だから、定時に退社。もちろん、必要な仕事は定時までにきちんと終えているから、誰からも文句は出ない。
さっさとルンルンの新婚生活に戻って、アフター5を満喫した。カミさんと2人で会社のジムに行ったり、綺麗な海岸を散歩したり、七輪でイワシを焼いたり。週末はポンコツ車で山の中に入ってドライブを楽しんだ。
当時の大学院卒の初任給が4万2800円。MITの同級生から誘われたブラジルの仕事は月給1000ドル(36万円)の好条件だっただけに、悲しいものである。月末に1000円残ったら2人で美味しいものを食べて残高ゼロ、という明日なき経済状況だった。広い銭湯に行くことが贅沢、という生活である。いまだにみなみこうせつの「神田川」を聞く度に当時を懐かしく思い出す。
救われたのはボーナスである。あるとき、1、2歳上の同僚の賞与明細を見てしまって、ハッとした。私のボーナスのほうが全然多いのだ。嶋井(副工場長)さんに直訴していたことを思い出した。
「私は時間内に仕事を終わらせて定時に帰っている。皆は残業で余禄を稼げるけど、こっちは生活が苦しい。残業代の分、ボーナスで面倒見てくれないとやってられない」
辞められたら大変だと思ったのか、ボーナスはしっかり上乗せされていた。いい会社なのである。