「君、日立というのは宇宙だ」
人事部長がわざわざアメリカに行ってスカウトしてきたMITのドクター、青田買いの第1号が出社初日に辞表を提出したものだから、会社はひっくり返った。
当時の日立工場の工場長は綿森力さん(後に日立製作所副社長。現在の独立行政法人新エネルギー・産業開発総合機構の原形である新エネルギー総合開発機構初代理事長)で、副工場長が嶋井澄さん(後に日立製作所常務取締役、日立運輸社長)、原子力開発部の部長は金井努さん(後に日立製作所社長)だった。
まさに日立工場のメインストリームそのものという面々から慰留された。一番困ったのは直属の中間管理職だろう。私が配属された炉心設計を担当する課の八巻秀雄(後に日立製作所研究開発部副技師長)課長からは「どうにかならんか」としきりになだめられた。
勢いで辞表は出したが、こちらから辞めるつもりはさらさらない。立つ鳥跡を濁さず。「辞めてもらって結構です」と会社から引導を渡されるまで待つつもりだった。
だから仕事は普通にやっていた。
炉心設計の仕事は面白かった。分析して、設計して、作った資料を動力炉核燃料事業団や東京電力などのお客さんに持って行って説明する、というのが基本的な仕事だ。週に1回は常磐線で上野に出て、得意先を回って説明して、夕方には日立に戻る。そんな仕事のパターンである。
時々、金井さん他の上役から食事に誘われた。翻意を促す意図もあったのだろう。こんなふうに諭された。
「君、日立というのは宇宙だ。原子力開発部が気に入らないなら、他にもいろいろな部署があるんだから」
部下は会社から自分が預かっているものという認識だから、辞められた実績を作りたくない。だったら本人の希望に沿って社内配転したほうがいい、というのが上の人たちの考え方だったようだ。