原子力をやるために帰ってきたのだ
実際、他部署からの引き合いもあった。聞けば中央研究所の第四部と海外事業部が「大前をくれ」と言っていたらしい。
中央研究所第四部は電子顕微鏡を扱っていて、私がMITの電子光学研究所でオグルビー教授に師事してX線マイクロアナライザーや走査型の電子顕微鏡をいじっていたことを承知してのオファーだった。海外事業部では語学力を買われたのだろう。
しかし、どちらも興味はなかった。原子力をやるために日本に帰ってきたのである。仕事に不満があるわけでもない。上役には「他の部署に行くつもりはない」と配転を断った。
彼らとしても厄介払いがしたいわけではなかった。
私はすぐに原子炉開発の日立工場右代表のような仕事をしていたし、辞める瞬間まで仕事は続けた。
競合相手の三菱や東芝などの関係者とも知り合いになって社外に顔を売っていたし、社内でも日立研究所や他の開発部門のミーティングに顔を出して共同研究したり、アイデアを提供した。日立に在籍した2年間で、日立全体のA級特許(国際登録する特許)の5%を私1人で発生させている。
だから上司との関係は決して悪くなかった。金井さんから「車は要らないか」と言われて、部長の使い古しのコルトを7万円で譲ってもらった。
2年後、金井さんから最後に慰留されたときに、「あの車が気に入らなかったのか」と言われたときにはこっちがビックリした。自分でもポンコツを払い下げた、という意識があったのかもしれない。
「もうちょっと我慢すればカローラの新車が買えるようになるから」と引き止められても、苦笑いするしかなかった。
次回は「日立での2年間で『学んだ』こと」。5月28日更新予定。
(小川 剛=インタビュー・構成)