大前さんのMIT時代(1967年9月~1970年6月)は、決して「詰め込み教育」の日々ではなかった。文化都市ボストンで音楽を楽しみ、休日には全米を旅して歩いた。そして何よりも、今に繋がる大前さんの「視野」を、最高の恩師が大きく拡げてくれた豊かな時間があった。

「一生の師」との出合い

MITを舞台とする映画(たとえば「グッド・ウィル・ハンティング」)には必ず出てくる同校のシンボル「グレート・ドーム」(写真提供・日本MIT会)

3年足らずのMIT時代は、短くも充実した日々だった。何物にも代えがたい素晴らしい経験をたくさんさせてもらった。

「杜の都」ボストンでの生活。MITの電子工学科のエドワード先生はチェロが上手で、土曜日の午後にレキシントンの豪邸に招かれると即興の演奏会が始まる。先生とゲストの弦楽四重奏に私はクラリネットで参加したり。後にボストン交響楽団に入られたヴァイオリニストの水野郁子さんともその席で初めてお会いした。

プロの音楽家ばかりではなく、音楽学校の生徒もMITの素人音楽家も皆レベルが高いから、集まれば初見でアンサンブルできる。ボストンのウィークエンドは、そこかしこで文化の香りが漂っていた。

日本で外国人相手のツアーガイドをしていた経験も生きた。クリスマスカードの交換などのために2000人くらいの顧客の住所と電話番号を控えていたので、休みには彼らに連絡を取った。すると、「oh!ケンじゃないか。今、MITにいる? じゃあこっち来い」と、皆、飛行機のチケットを気軽に送ってくれるのだ。せっかくの休みも貧乏留学生は寂しい寮生活が相場だが、私は休みを利用して全米を旅できた。

たとえばアーカンソーの田舎では日本で考えられないような規模の米づくりを初めて見た。『加算混合の発想』にも書いているが、このときの経験が私のコメ問題、日本の農業問題(「第三次農地解放」)に対する考え方の原点になっている。

思えば音楽にしても、英語にしても、ツアーガイドにしても、何か意図したわけではなく、やりたいことをやってきただけなのだが、それがMIT時代に1つに結実したような気がする。カミさんともMITのオーケストラでプカプカやっているときに出会ったのだから。彼女はニューイングランド音楽院の1年生で、オーボエをボストン交響楽団のラルフ・ゴンバーグさんに師事していた。18歳と27歳の出会いではあったが、その後私がドクターを取って帰国した半年あとに日本に来て結婚した。以来40年、ということで昨年2011年の4月にはサントリーホールの小ホールで友人達を招いてコンサートを開いた。

素晴らしい先生方との出合いも人生の糧になっている。私が一番お世話になって、一生の師と仰いでいるのが、電子光学研究所の名物教授だったロバート・オグルビー先生である。先生の下の助教授が私の論文の指導教授ジーボルト先生である。2人はX線マイクロアナライザーを用いた定量分析の手法を確立した名物教授でもあった。その関係で私は原子炉工学科ではなく材料工学科のオグルビー先生の研究室に机を置かせてもらって、そこでよく勉強していた。