「思い返せば、父親は研一によく一人旅をさせていました」——大前さんのMIT留学時代を支えた姉・伶子さんの言葉だ。「日本にいたときは気難しくてヘンな弟と思うことのほうが多かったのですが……」。伶子さんが語る弟・研一の個性、独立心、そして優しさ。

海を渡る血脈

弟・研一がMITで学んでいた時代というのは、私にとっても大変思い出深いものがあります。

研一が旅立った一年後に、私も初めてアメリカの土を踏みました。研一と示し合わせたわけでもないし、単身、海を越えた弟が心配で追いかけたわけでもありません。あくまで個人的事情によるものでした。商社マンだった夫がニューヨークに転勤になり、夫と私とまだ幼い娘の家族3人、向こうで暮らすことになったのです。

研一のMIT行きについては、親兄弟は既成事実として受け止めるしかなかった。もとより自分の進路を家族に相談するようなタイプではありませんが、MIT入学は完全に当人の独断で話が進んで、私たちは事後報告を受けただけです。

だから反対も何もない。そもそも研一が大学院を出て社会人になるなんて、家族は誰も期待していませんでした。あの子を受け入れる会社の難しさを考えてしまいますから。

大学教授とか、そういう職業しかなかろうというのが家族の共通認識です。大学教授になるなら、ドクターを取らなければいけない。私たちの父親も、そこは理解があって、「そのためにアメリカで学ぶ必要があるのならば、もっと勉強していい」という考え方でした。

少年時代の大前研一さん(右手前)と家族。後列中央が伶子さん。(大前伶子さん提供)

父親は対馬から東京の大倉商業学校(現在の東京経済大学)に勉強にきた人です。本州に船で渡って、さらに汽車で丸1日かけてようやく東京に出てこられる。そんな時代でした。海が荒れて船が出なければ3日も港で待たされたそうです。そういう行ったり来たりを長年やった父親ですから、研一も「親父に比べれば楽なもんだよ」と言っていました。

多分、“血”なのでしょう。父親と同じ血が流れている研一にしても、私にしても、あの時代にアメリカに渡ることにあまり抵抗感がなかった。遠いところに行くという感じがしない。地球は1つ、ですから。今でも年に2回くらいはニューヨークに行きますが、「ちょっと行ってくる」という感覚です。

思い返せば、父親は研一によく一人旅をさせていました。日立造船で働いていた関係で祖父たちが門司に住んでいて、中学生の研一が行きたいとねだったことがあります。父親は「(住んでいた横浜から)門司までの全部の駅名を一つも間違えずに言えたら行かせてやる」と条件をつけた。地理好きだった弟は苦もなく課題をクリアしました。