高等弁務官が出す「布令」は絶対的な法律だった
戦争が終わって数年が経過すると、焼野原となっていた島のあちこちは整備され街が形成されていき、沖縄は「アメリカ世」と呼ばれる、まさにアメリカ文化花盛りの時代に突入した。
戦後間もなく、闇市が立っていたエリアは、人々が押し寄せるショッピングストリートへと成長していったのだ。
アスファルトで舗装されはじめた道路では「アメ車」が走り回る。もちろん、車は右側通行の左ハンドル。カーラジオからはジャズが流れ、キャバレーと呼ばれたナイトクラブで雇われていた沖縄のジャズマンたちの給料は、琉球政府の役人よりも良いといわれた時代だったという。
そんな「アメリカ世」の沖縄で、「帝王」とも呼ばれたのが高等弁務官。ことあるごとに都合のいいルールを決め発表し有無をいわさず、住民を従わせていたのだ。この高等弁務官が決めたルールというのが「布令」。布令は、当時の沖縄にとって、絶対的な法律だった。
ところがこの布令、そうとうにいい加減なところがあって、度々もめごとが起きていた。「サンマ裁判」は、ある「理不尽な布令」に腹を立てた、魚屋のウシおばぁが起こしたものだったのだ。
「サンマ裁判」の記録が東京・御茶ノ水に
「サンマ裁判」の詳細な記録が、現代の東京に残されていた。
ある専門誌に、サンマ裁判の核心に迫る、さまざまな事実が書き残されているらしいことがわかった。東京の御茶ノ水駅からすぐの場所にある、公益財団法人「日本関税協会」。戦後間もなく民間の自由貿易が始まったころ、日本の税関運営をサポートするため設立された協会だ。この日本関税協会が発行してきた機関紙『貿易と関税』二〇〇二年十二月号に、サンマ裁判の詳細な経緯が記録として残されていた。
「こんにちは。お話はうかがっています」
事前にやり取りをしていた女性職員から引き継いだという男性が出迎えてくれた。
「よろしくお願いします」と名刺を交換するとギョッとした。
「日本関税協会の魚と申します」
なんと、サンマ裁判取材の対応をしていただく担当者は、「魚(うお)」という名前だったのだ。できすぎている。調査は良い方向へ進んでいるのだと確信した。
魚さんが事務所の一角に設置された書棚へと案内してくれる。ずらっと並んだ機関紙『貿易と関税』。想像していたよりもスリムな冊子だ。魚さんの指が年代ごとに並んだ背表紙を右から左へと撫でていく。
「えっと……あっ、ありました。これですね」